ケータイを通して現代社会を学ぶ、主として社会学系教員からなる入門書。2002年の『ケータイ学入門』の全面リニューアルという位置付けだ。「社会とケータイのかかわりについて、できるだけ多様な側面から光を当てよう」という趣旨での改定。執筆陣には、新潟大学から、博士研究員の上松恵理子先生、人文社会・教育科学助教の吉田達先生が加わっており、お二人から献本いただいた。どうもありがとうございます。
全体に目を通すに至ってはいないが、目次と、編者のお一人関西大学岡田朋之先生による、第一章を読んだところで、雑感を書いておく。
この本では、「ケータイ」という言葉により、携帯「電話」としてではない多能な側面を表現している。大変興味深いのは、IT、情報化、若者文化、青少年保護、教育といったセクターで、それぞれの(業界の?)立場からケータイが毀誉褒貶にさらされてきた、という見方だ。これに対して本書では、「ケータイをはじめとする情報メディア」が、これらの各領域それ自体を揺るがしている(恐らく教育分野が念頭にある?)中で、いわば部分最適ではなく、トータルな最適化、総合的視点の必要性を強調している。
Photo by Cheo70 on Flickr.
実際この本の提示するトピックは多様だ。全体を貫いているのは、「社会的存在としてのケータイ」「当事者の視点」の二つの視点。ケータイは、技術的側面ばかりが注目されがちだが、「さまざまな立場の人々がさまざまな思惑のもとにかかわることで具体化しているもの」であるという意味では、社会的存在であるということ。この視点が一つ目。二つ目の「当事者」というのは、送り手や売り手ではなく、利用者の目線ということ。利用者の目線で見たときには、ケータイをめぐるさまざまな領域の実情が見えてくるということだろう。
章建てとしては、メディアとしてのケータイ、さらには、普及や多機能化に至るケータイの歴史といった、オーソドックスな記述に加えて、コミュニケーション、自己意識、身体感覚と言った側面、家族コミュニケーションのあり方、ケータイと学校教育という側面にも光を当てる。教育とケータイ、もう少し広げて、教育と情報機器、というのは、現在も微妙な緊張関係をはらんでいる。大学で同僚と話していても、電子機器やネットへの理解がネガティブなイメージに固まっていて、なかなかうまく話を進められないことは多い。まして初等中等教育では、こうした緊張関係は現在も非常に強いと聞くし、まさしくこの本の取り組むべき肝の部分だろう。第7章は新潟大学博士研究員の上松恵理子先生のご担当。
終盤はさらに視点を広げ、ケータイがもたらすネットとリアルの交錯(たとえばARなど)、ケータイと監視社会、流行や風俗上のアイテムとしてのケータイ、などのトピックが登場するほか、海外のケータイ事情について、11章で韓国、フィンランド、ケニアが取り上げられている。「監視社会」が新潟大学吉田達先生のご担当。
全体を通読してはいないのだが、印象としては、「社会的存在としてのケータイ」をさまざまな側面から分析するにあたり、ケータイや情報化社会のネガティブな側面にも一定の配慮をしてはいるものの、ことさらに不安をあおる立場には与することなく、ある種の中立性を保っているように感じる。こうした「入門書」が、メディアやネットに比較的ネガティブな立場をとる「文系」の大学・学部の教育課程に導入されていくならば、徐々に大学の教育課程にもよい変化がもたらされるのではなかろうか。
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