カトマンズ三日目が終了した。
異変:携帯の電源が入らなくなった。こちらで携帯がつながらないと書いたが、さらに事態は悪化。帰国後のために充電したまま外出したのだが、帰ってきたら電源が入らない。こちらは電圧も不安定のようで、その関係かもしれない。帰国後修理しなければならないかも。
こちらは夜が早い。いまこちらの時間で11時半。薄暗い中をびびりながら、10時半過ぎにタメルという繁華街まで行ってみたが、ほとんどがクローズ。開いている一軒のバーに入ってみたが、11時半で閉まるという。これも治安維持のためなのか。享楽的な東南アジアとはまったく雰囲気が異なる。
食べ物は気がつくとダルバートという、カレー数種とおかずとごはんの入ったプレートを食べている。いろんな味のダルバートがあるようだが、あまり違いがわからない。昼間に入ったタイ料理は、いまいち。札幌の店のほうがまだいいかな。
WAKHOKを卒業したばかりで、今回の旅に同行しているGタムは、いきいきしている。3年ぶりの帰国で大変な歓迎ぶり。一族がみなカトマンズに戻ってきて、なかなか彼をホテルに帰してくれない。
25日:私立高校の校長先生を訪問。いろいろアドバイスをもらう。ネパールの大学の仕組みはなかなか複雑で、CollegeとUniversityが違うとか、Collegeにも二種類あるとか、そのほかにinstituteがあったり、いまだによくわからない。どうもこの先生はなかなかのやり手のようだ。学校の建物の上の階に住んでいる。
26日:朝早く目が覚めたので、一人で散歩。道に迷う。信号がなく、看板もなく、大きな建物もないので、非常に迷いやすい。ダルバート広場で「外国人は金を払え」といわれて、逆にこちらから道を聞く。親切に教えてくれた。Gタムの親戚の別のGタム(以下:Gタム2)が現れる。Gタム2も、Gタムの後を追ってWAKHOKにくる予定だったが、日本語力が追いつかず、断念した経緯がある。今はNGO活動に取り組んでいて、なかなか話してみると鋭い人だった。その後Gタム2が学んだ日本語学校の先生に会う。カトマンズでは数少ない日本人の先生。ネパールの日本語教育事情について非常に丁寧に教えてくれた。状況はなかなか難しい。日本語の先生の層は相当に薄く、日本人の有資格者は一桁。日本語検定3級程度のネパール人が日本語の先生をやっているケースもあるらしい。しかもネパール語と日本語は実は親和性があって、ネパール人は漢字を使わない会話体の習得が早い。「仕事で使う日本語」としてはこれで十分だという。大学留学に必要な2級相当の力をつけるために、ここからさらに漢字を勉強するというのは、いろいろな意味で相当ハードルが高い。だから英語で教えればいいんだよー。
午後は、モンキーテンプルに行った後、Gタムたっての希望で、彼の親戚のうちへ。ポカラから息子に会いに来た彼の両親や親戚に会った。お母さんが我々の額に赤いぽちっとした色を塗ってくれる。縁起物らしい。お兄さんからはネパールの帽子をいただく。そのままの格好でホテルに戻り、この日は前日の校長先生のところで夕食。校長先生は名刺にSingerと書いてあって、あちこちでコンサートもやっているようだった。さらに最近は自分でビデオをとってプレミアで編集するのにハマっていて、自分の旅行とか学校の行事を撮影して、なかなか凝った編集をしていた。まだまだ見せたいビデオがあるようだったが、翌日のプレゼンがあるので、我々は退散。そこからは、Gタムも交えて4人でプレゼンの用意。相談した結果、僕の出番はなくなったので、途中でダウン。二人のGタムは夜中まで格闘したようだった。
(つづく)
ネパール
伝説上では、昔、カトマンズ盆地が湖で、文殊菩薩が人々を苦しめる大蛇を退治した時、湖がなくなりカトマンズ盆地ができたそうです。その小高い丘に文殊菩薩がストゥーパを…