提案型「きらり先輩」
manbow!manbow!manbow!から。
「きらり」は稚内北星のWEBに載っているコーナーなのだが、なかなか候補者が上がってこなくて担当者が苦労している。
「提案型」というのがよくわからなかったが、要するに大学側が「きらり」と光った卒業生を「一本釣り」するのではなくて、自薦/他薦で出てくるということのようだ。
むしろそれは歓迎しているし、その旨、WEBにも書いてあるのだが。
要するに卒業生から見て、それだけ親しみをもてない存在なのかな。それと、大学側の情報発信がいつも泥縄というか、場当たり的というか、よく言えば柔軟なのを在学中によく見ていたためかもしれない。こちらは、「言ってくれればどんどん紹介するよ」と言っていても、有効なコミュニケーション・チャンネルを持たなくなって、いまさら「俺を紹介して」とか「彼を紹介して」とかいいにくいのだろう。たしかに、気軽に話せる関係があってはじめて、「今度僕も紹介してよ」と言えるわけで、かしこまって「ぜひ次回私を取り上げていただければ幸いです」と大学にコンタクトするのは、相当敷居が高いかもしれない。
この関連で学生とのコミュニケーションで問題だと思うのは、二点。
1.システムができていない
小さい組織なので、いきおい「あらかじめ決めておかなくても、それぞれ事情に応じて個別に対応する」ということが多い。学生から見ると、こういう対応は非常にわかりにくい。逆にこういう柔軟性によって救われることもあるのだが、原則が明確化していないことで、右往左往している学生をよく見かける。きちんと決まった原則によって、自分が黙っていると不利益を受けるということがわかっていれば、それなりに学生も動くはずだ。個別の教員が学生たちの考えを聞いて、決まったシステム・原則の中での行動指針を与えるのはいいだろう。しかし小さい組織は、そういう行動が全体のシステム・原則の中に入り込んでしまうから厄介なのだ。そうなると逆に全体としては原則が見えにくくなり、普通に行動できる人々が困ってしまうのだ。
2.学生は指導する対象であって、自発的な意思を持たないと考えている
上とも関係するが、学生には意思がなく、こちらが何でも手取り足取り教えなければならないと考える傾向が強い。これはたしかに実態としてそういう面もあるのだが、学生の自主的な活動を促し、それをサポートしていこうという姿勢が欠けてしまっている。卵が先か鶏が先か。いずれにしても、学生の自主性が発揮されていないと思うことは多い。さらに問題なのは、その先に「学生には何も任せられない」ということを超えて、「何でも教員の都合に合わせて決めてしまう」ということもたまに起こる。どうしても自分たちに甘くなってしまうということだろう。そうなると逆に、「先生に頼めば何とかなる」と思っている学生の行動も起こる。
以上二点は「きらり」とは全然関係がないようでいて、僕の頭の中ではつながっている。つまり、こういう原則で動いている組織内部では、適応できる人たちはFace to faceでのコミュニケーションにより、うまくやっていけるのだが、その組織の外に出ると、途端にどこにどのようにコンタクトしていいのか、わからなくなる。組織としては、別にそんな他人行儀なことをしなくても、組織全体として対処しますよ、というのだが、普通の卒業生から見たら、そんな大げさなことはしたくないだろうし、誰とでも楽しく話せるような和気藹々としてコミュニティであった大学も、そもそもよく考えていれば知らなかったことも多いし、ああ他人なんだなあと思ってしまうことのほうが多いだろう。
ちょっと前の日経ビジネスに金沢工大の「CS対策室」の話が出ていた。
その組織がちゃんと機能しているかどうかはわからないが、大学が学生や卒業生や受験生と、どのようなチャンネルでどんなコミュニケーションをするべきなのか。私立大学はいま受験前の学生に対する一方的な宣伝には力を注いでいるが、特にいわゆるカスタマーサービスや顧客満足の向上という点では、まだまだこれからという段階なのだろう。
早稲田も父兄に学生の成績を送るようになったようだ。
世間は学生に対する管理を強める傾向にあり、父兄を顧客ととらえるならば、それはもっとも話だということになる。しかし実際にサービスの提供を受けるのは学生たちだ。彼らがどのような行為に満足し、成長していくかは、在学中の時間だけでは計れないものもある。僕が授業でやっていることは、たぶん学生生活の中でそんなに関心を持てるような事柄ではないように思うが、あとになって「ああこれやったなあ」と思って、もう一度勉強しなおしてもらえればいいなとも思っている。だけれども、「未熟な彼らにはちゃんと物事を判断できないから、何でもこちらが決めてあげるのだ」という姿勢は、つねに「大学のほうが都合のいいように決めるんだ」という方向に転じやすいのだということを、よくよく自覚しなければならないと思う。