朝鮮半島出身で、戦前日本に渡って成功した歌手、小畑実さんについてです。
北朝鮮への帰国事業に参加して帰国し、そのまま消息を絶った著名人に、テノール歌手の永田絃次郎がいます。朝鮮半島出身の歌手として、戦前一線風靡をした永田さんのことは、長く忘れ去られていました。最近永田絃次郎さんのことを調べているうち、その永田さんとは対照的に、戦後も日本の歌謡界で活躍した、朝鮮出身の歌手として、小畑実さんを見つけました。クルーナー唱法という歌唱法で、成功を収めています。
永田絃次郎さんのことは、産経新聞の喜多由浩さんが著書にまとめられていて、それを読んでから、帰国事業との関連でまた書きたいと思います。今回は、永田さんに引き続く形で日本にきた小畑実さんについて書いてみます。
小畑実こと、康永喆(강영철 / カン・ヨンチョル) さんは、1923(大正12)年平壌生まれ。1937年14歳で日本に渡り、東京でアルバイトしながら音楽学校で声楽を学びます(この頃すでに、永田絃次郎さんは、オペラ歌手三浦環の相手役に選ばれて、注目を集めていました)。その後、作曲家江口夜詩について、歌手としてデビューのチャンスをつかみます。デビューのときに名乗った名前が「小畑実」。下宿先の大家で秋田県大館出身の小畑イクさんの苗字をとったとされています。小畑イクさんの息子で、共産主義者の小畑達夫さんは、日本共産党スパイ査問事件で、特高のスパイではないかと疑いをかけられて死亡しています(という記述がWikipediaにもありますが、元ネタは、喜多由浩さんの著書「北朝鮮に消えた歌声 永田絃次郎の生涯」に書かれた内容で、喜多さんにこれを語ったのは、映画監督の呉徳洙さんだそうです。48ページ)。戦後1953年に、小畑実さんは、小畑イクさんと息子達夫さんの墓を、大館市に立てたそうです。
「音楽で身を立て」ようとした朝鮮の青年にとって、内地の日本に渡ってチャンスを探るしか道はなかったのでしょう(それは内地の田舎でも同じだったのでしょうが)。歌手を目指す苦難の道を選んだ青年の中で、永田さんや小畑さんのように成功した人は多くはなかったのだと思います。いろいろ調べてみると、この2人の足跡が目立ちます。
小畑さんのヒット曲は、戦中だと1942年『湯島の白梅』、1943年「勘太郎月夜歌」、戦後は1957年の紅白歌合戦で歌った「高原の駅よさようなら」、1950年の「星影の小径」が知られています。声楽を学んだ小畑さんのクラシックの歌唱法は、当初作曲家に嫌われたそうですが、そこで発奮した小畑さんは、「裏声を使った甘く語りかけるような独自の唱法」である「クルーナー唱法」をマスターして、成功をおさめます。
北朝鮮で消息を絶った朝鮮出身の歌手永田絃次郎さんとは対照的に、小畑さんは日本で経済的にも成功をおさめ、南の民団に参加し、韓国でも公演を行いました。小畑さんは、1979年、ゴルフをプレイ中に倒れて、55歳で亡くなっています。
小畑さんが亡くなって40年、歌っている映像は、YouTubeに非公式にあがっている「懐かしのメロディ」のような番組の動画がありますが、公式にアップされたものはありません。ヒット曲のうち「星影の小径」は、その後多くの歌手がカバーしており、ちあきなおみさんが1985年にカバーした曲が、CMでも使われて広く親しまれています。
(以下は2015年にサーカスが公開したもの)
小畑さんは、当時を知る人にはよく知られているそうですが、すでにかなりの時間が経ちました。小畑さんが早く亡くなったこともあり、小畑さんを記憶している人も少なくなってきているように思います(私自身も、今回調べていて、初めて知りました)。
小畑さんよりさらに一回り上、永田絃次郎さんについては、またの機会に触れたいと思います。
追記:Spotifyに「星影の小径」がありました。