『 戦火に消えた我が樺太よ 』 ー 忘れない心のふるさと ー』新潟展に行ってきた

『 戦火に消えた我が樺太よ 』

週末、新潟県民会館で開催されていた全国樺太連盟の移動展『戦火に消えた我が樺太よ ー 忘れない心のふるさと ー』に行ってきた。

樺連ニュース : 樺太関係資料館 新潟移動展

『 戦火に消えた我が樺太よ 』 『 戦火に消えた我が樺太よ 』

稚内に6年住み、ユジノサハリンスクも一度訪問したことがある自分としては、正直北方領土よりも、樺太・サハリンの歴史やこれからに、より関心がある。「樺太」の領有権問題を蒸し返そうという人は、現在そう多くはないし、日本政府も積極的な主張をしているわけではない。正直遠く離れた新潟人の関心は、そんなに高くはないようで、来場者も多くはなかった。稚内では、樺太からの引き揚げの話を耳にすることもあり、対露感情が悪いのもやむをえないと感じる一方で、市役所にはサハリン課やユジノサハリンスク事務所があり、「日ロ友好最先端都市」をスローガンに、官民挙げてサハリンに活路を求めている状況もある。正直国境に近い稚内では、領土問題として「樺太」を扱おうという空気は、ほとんどなかったように思う。

さて、展示はサハリンを探検した間宮林蔵の頃の内容から、ウィルタ、ギリヤークなどの少数民族の様子、樺太の開発の歴史、人々の暮らしと続いて、ソ連侵攻の様子までを紹介していた。会場内には、全国樺太連盟の関係者の方がいらっしゃって、いろいろ説明して下さった。説明される方が、日ソ中立条約を破棄して攻め込んできたソ連の行為を非難するとともに、ふるさと樺太の返還に向けて世論を喚起したいということ、しかし日本政府やメディアもこの点にほとんど触れてくれないことなどをお話しされていた。国際法の問題としても、また現在の国際情勢に照らしても、「樺太の帰属問題」が政治課題として浮上してくる可能性は低いとは思う。が、1945年までの樺太の様子を見た後で、樺太で生まれたという高齢の説明員の方の、郷土を取り戻したいというお気持ちを伺うと、そんな野暮な現実論を話そうという気持ちにはならなかった。

撮影禁止ではなかったので、印象に残ったものを何枚か撮ってきた。こちらは漁船で引き上げてきた船が、浜頓別についたところ。

『 戦火に消えた我が樺太よ 』

ソ連の対日参戦後になって、樺太庁は本土への民間人の緊急疎開を決定したが、この輸送は終戦後の8月23日、ソ連によって禁止される。その後、引き揚げが始まる46年12月までの間に、漁船などで密航し、北海道を目指した人も多かったが、ソ連軍に見つかって沈没したものも多かったという。決死の覚悟で密航した人々のうち、なんとか浜頓別までたどり着いた人たちの写真ということになる。緊急疎開で小樽方面に移動していた船が、小平などの沖合で攻撃されて沈没した話は知っていたが、漁船で帰ってこようとした人たちがいたのは知らなかった。ちなみに攻撃を受けた緊急疎開の船のうち、一隻が一度稚内に立ち寄っていたことを、今回初めて知った。そこで船を降りた人たちは運良く助かったし、逆に稚内から乗り込んだ数名は、攻撃を受けることになったということになる。

「ソ連軍の大泊侵攻」というタイトル。たしかこの写真、ユジノサハリンスクの博物館(旧樺太庁博物館)にも展示されていたと思う。「敗走する日本人たち」というようなタイトルだったかと。

『 戦火に消えた我が樺太よ 』

旧樺太庁博物館を2005年に撮影したもの。この状態で、現在も残っている(はず)。
Japanese Styled Building in Russia

樺太での戦いは、8月9日以降に行われており、むしろ8月15日以降に、民間人の生活している地域への攻撃が行われ、多くの犠牲者を出している。樺太や千島では、8月15日以降も戦闘が行われたが、ここでの戦いで苦戦したソ連が、北海道侵攻をあきらめたという説もある。知れば知るほど、ソ連参戦の不条理と、その気配に気づけなかった日本の情報収集能力の限界を感じる。

2010年に復刻上映された、映画『樺太1945年夏 氷雪の門』の予告編。

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