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新潟ソーシャル時評:湯沢の南雲純子さんが佐渡の観光戦略官に

(2014年4月4日新潟日報モア「「新潟ソーシャル時評」」から転載。)

2日の新潟日報朝刊に、佐渡の非常勤特別職として、観光戦略官と広報戦略官に辞令交付があったという記事が出ていました。

観光戦略官と広報戦略官の採用内定者が決まりました(2014年1月 募集分)[佐渡市ホームページ]

私の知人であり、湯沢町で「湯沢日和」というブログを続けていた南雲純子さんが、観光戦略官に就任されました。

今回の非常勤特別職の募集は、私の周りでは結構話題でした。観光も広報のいずれも、佐渡に興味のある人にとっては、チャレンジしてみたくなるポストでした。ただ、今仕事を持っている人が兼業としてやるには、佐渡との往来が大変かなという印象でも有りました。南雲さんもおそらく、佐渡と湯沢を行ったり来たりで仕事をされるのだと思います。

南雲さんはプロフィールにある通り、リクルートの立場で旅行の仕事をされていて、その一環でブログも使われていたのだと認識しています。また、地元のメンバーとUstream番組もやっていた時期がありました。非常にスマートに、小さな町の魅力を伝えてくださる方ですので、未開拓の魅力があふれている佐渡では、大きな力を発揮してくれるのではないかと思います。

逆に佐渡の人達からすれば、「よそもの」が何をしてくれるのか、お手並み拝見というところもあるでしょう。ちょうど新潟ソーシャルメディアクラブでも、「佐渡」の企画を考えようと思っていたところです。一緒に何か企画してみたい、そういう気分になりました。

南雲さんは、すでに「佐渡旅(sadotabi)」というブログをスタートされています。

佐渡旅(sadotabi)

中頓別町議が、村上春樹作品に「マジレス」

村上春樹さんの作品をめぐって、急に注目を浴びた中頓別町。自分が2000年代前半を過ごした稚内が属する、宗谷総合振興局管内(旧宗谷支庁管内)の町なので、大変懐かしい。

#かつて「管内」という言葉(支庁の管轄地域を基準にして地域について話すときの言葉?)を聞いて、よく意味がわからなかったが、今でも使われているのだろうか。

村上春樹さん、中頓別町議からの質問状に回答

作家の村上春樹さんが月刊誌「文芸春秋」(昨年12月号)で発表した短編小説「ドライブ・マイ・カー」をめぐり、北海道中頓別町の町議6人が、町への誤解を招く表現があるとして、出版元の文芸春秋に真意を問う質問状を送った問題で、村上さんは7日、文芸春秋を通じて見解を発表した。村上さんは、北海道への親近感を込めて作品を書いたが、単行本化の際に別の名前に変えることを検討しているという。質問状は7日付で送付されたが、文芸春秋はまだ受け取っていない。

小説では、中頓別町出身の女性が車窓から火のついたたばこを外に投げ捨て、主人公が「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」と思う場面が描かれていた。

宗谷

地図を見ていただくとわかるが、中頓別は宗谷の中では南側にあり、稚内から100キロ以上離れている。100キロというのは、稚内感覚ではそんなに遠くはないのだが。
ゼミ合宿を、ピンネシリオートキャンプ場で行い、敏音知(これでピンネシリと読む)岳にも登ったこともあった。大きな商業施設はほとんどないが、オホーツク海から少し内陸に入った場所にあって、鍾乳洞があり、砂金採りもできる、静かないい町だった記憶がある。

キャンプ | 中頓別町

個人的には、タバコの車からのポイ捨てを、中頓別でよく見かけたということはない。しかし北海道全般で、窓から投げ捨てはもちろんのこと、扉を開けて灰皿の中にたまった吸い殻を外に捨てる人を、何度も見たことがある。北海道に限らず、人口密度が低い場所では、他人の目が気にならない場所で、こうしたモラルの低い行動が一定割合で見られるということだろう。こうした一般的な状況認識が、たまたま耳に残っていた中頓別という地名と結びついて、今回のようなシーンとして登場しても、さほど違和感はない。しかも今回問題となっている、「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」部分は、登場人物の推測にすぎない。

しかし中頓別の一部町議は、これが許せないということで、質問状を送りつけるといういわば「マジレス」を行った(厳密にいうと、レスではないか)。町の評判を著しく害するということなのだろうか。自分だったら作品から消してもらうよりは、せっかく著名作家が「中頓別」を登場させてくれたので、これをネタにして、「実際には喫煙率が低い」とか、あとなんだろう、街の知名度をあげるような使い方をさせてもらう。いやひょっとすると、この「質問状」自体が、町の知名度をあげるための「炎上マーケティング」のような、高等戦術なのだろうか。

自分自身は作品を読んでいないが、小説の中身まで踏み込んで、このような批判をすることは、正直「無粋」だと思う。フィクションの中での取り扱われ方について、町議のような公共的立場にある人が介入するというのは、正直やり過ぎだろう。
しかし「無粋」だろうと「マジレス」だろうと、町の評判は守りたいというのが、質問状を出した人たちの気持ちなのかもしれない。ソーシャルメディアは、世間にたくさんあるこの手の「無粋さ」を可視化した。子連れの家族に舌打ちする大人の無粋さも可視化されたし、「子育てに冷たい社会」んついての議論の中でも、さまざまな「無粋」な意見が可視化された。静かな町中頓別の人たちは、ここまで大事にするつもりもなかったのかもしれないが、結果的に「無粋さ」をさらすことになった。評判はあまり守られなかったような気がするが、(少なくとも短期的には)知名度はあがったかもしれない。

ちなみに、中頓別の隣には、クッチャロ湖で知られる浜頓別町があり、頓別川という川が流れている。「トンベツ」というのは、アイヌ語の「ト・ウン・ペツ」から来ており、「沼に行く川」という意味になるようだ。

中頓別町トップページ | 中頓別町

浜頓別町ホームページトップページ

家入候補、ハッシュタグで募集した意見から120の政策を発表

かつてリベラル系の政治家の選挙演説で、「しなやか」という言葉がよく使われた。あれは今でもどういう意味で言っていたのか、正確にはよくわからない。保守の強面・マッチョなイメージと対極にある、やわらかいイメージのことを語っているのだということは、なんとなくわかるのだが。

辞書的には、1)柔軟で,弾力に富んでいるさま。よくしなうさま。2)動作・態度に角張ったところがなく,なよやかなさま。たおやかで優美なさま。ということになるようだ。

しなやか とは – コトバンク

東京都知事選の終盤で、家入一真さんは、#ぼくらの政策 でFacebookやTwitterを通じて募集した政策から120の政策を決定し、発表した。

家入一真(いえいりかずま)東京都知事選立候補者 120政策決定

ieiri

都知事選当選に必要な票数は多いので、家入さんが当選するのはかなり困難だと思うが、たとえ落選したとしても、これを発表したことが、社会的には十分な成果ではないかと思う。彼はあらかじめ公約なるものを決めることをほとんどせず(「居場所を作る」ということは言っていた)、未来像をみんなで出し合って、それを政策としてまとめるというプロセスを「可視化」してみせた。どこまでガラス張りで作られたといえるかは、よく見てみないとわからないが、多くの人々のハッシュタグ付き投稿から、賛同できるものをピックアップしたということだろう(どのアカウントのTweetの意見を取り入れたかも、可能な限り明示されている)。

「子育て福祉をしっかりやります」「防災対策に力を入れます」、というような言葉を連呼する政治家は多い。実際には何をやるのか、演説ではよくわからない。また有権者の側も、「しっかりやってくれ。よろしく」と考えるか、関心がないか、いずれにしてもそれ以上深く突っ込むつもりがない人たちがほとんどであった(そして「ネット選挙運動」が禁止されていたため、ソーシャルを通じた「突っ込み」も不可能であった)。実際には、支持団体の意向というのが、それなりに政治家の言動を左右してはいるのだが、これまでそれは表には見えなかった。

家入さんの背後に、支持団体っぽいものが何もない、と考えるのはナイーブすぎるかもしれない。しかしながら、ソーシャルメディアを使って、ボトムアップで政策を作り、そのプロセスを「見える化」し、できあがった制作の束を背負って当選を目指すというスタイルが、可能だということは、はっきり見えてきた。少なくとも政策形成プロセスは透明であるように見える。これで思い出したのが、冒頭に出した「しなやか」という言葉。「しなやか」という言葉は、もうすでに手垢がついていて陳腐だが、柔軟さという意味でいうならば、このような政策形成こそ、よっぽど「しなやか」ではないかという気がしてくる。選挙演説でワンフレーズを連呼する人たちは、リベラルだろうと保守だろうと、ちっとも「しなやか」ではない。

今後こういうボトムアップで政策を選択する政治家が選ばれるべきと考えるか、自分や党が決定した政策を掲げる政治家が選ばれるべきと考えるか。首長の場合には、一人で判断・決断する場面があるわけで、ボトムアップ型の候補者は必ずしも歓迎されないのかもしれない。しかし、議員の場合には、党が政策を作るのではなく、ソーシャルから吸い上げた意見から政策を形成し、そこに類似性のある人達が、離合集散して会派を形成するというような形が、ひょっとしたらできてくるのかもしれない。そんな期待を抱かせるような現象であるように思う。

この現象の面白さが、どこまで票に現れるのか。政策の発表に際して、家入さんがFacebookで出していたメッセージも面白かった。固定電話世代の世論調査と、ネットの民意のギャップが、実際の投票結果にどのように現れるのか。この点も注目したいところだ。

この表を見てください。20代30代40代が動けば時代が変わるんです。どうせ舛添さんだろ、どうせ細川さん宇都宮さんだろ。そう思う方々も多いと思います。でも、もし僕らが動かなくても既定路線がそうなのであれば、僕に賭けて一票入れてみませんか

メディアが報じる予想票数。あれ、固定電話で調査してんだよ笑。僕らの周りはどれだけ固定電話持ってるんだろう。持ってないよね。ネットの民意、若者の民意を見せつけてビビらせてやろう。5人の友達に、それぞれ5人ずつ紹介してと伝えてください。

「シェア」はその価値がわかりにくくもろい存在:「プライバシー」との両立

今学期の最後、いくつかの授業で「シェアとプライバシーの両立」について、自分の考えを書いてもらった。こんな内容で出題し、解説もした上で、少し時間をかけて回答してもらった。

TwitterやFacebookなどのソーシャルメディアは、多くの情報が公開で共有、シェアされることで、メディアとしてのパワーを拡大してきました。「アラブの春」のような政治運動でも、不正を暴く「Wikileaks」のような仕組みでも、こうした「シェア」の力が働いています。しかしその一方で、止められない拡散力は、Twitterでの「炎上」や「リベンジポルノ」などの副作用をもたらし、SnapchatやLINEのような、はじめから限定されたサービスにも、支持が集まり始めています。これから人々は、プライバシーを守りながら「シェア」を続けていくのかどうか。「シェア」のある社会を続けていくにはどうしたらいいのか。皆さんの考えを書いてください。

(Wikileaksの拡散にはマスメディアの存在も関わっているので、「シェア」の力と言い切っていいのかは、実は若干迷ったところもあるのだが、それはさておき。)

学生にとって、SNSとプライバシーの問題は自分の身近に起きうる問題で、「炎上」も「リベンジポルノ」も、すぐそこに転がっていそうな話。なのでこちらについてはだいたい回答があり、気をつけなければとか、キャリアがもっと規制すべきではとか、そういう意見が必ず書いてある。

かたや、ソーシャルメディアの「シェア」がもたらす積極的意義については、さらっと触れている程度で、実感を持って語られているものは、ほとんど見当たらない。やはりあんまり実感がないのだろう。

普段はたわいもない日常が語られているだけに見えても、必要な情報が瞬時に人づてにやってくる、というソーシャルメディアの意義は、なかなかわかってもらえない。受け取った情報を「評価」し、それをさらに「シェア」するというのは、社会的に意義はあるのだが、どちらかというと面倒くさい作業だ。答えだけ欲しがっている人には、面倒なことなのだ。せいぜい、食べログや価格コムなど、自分の生活上の利益に直結したところでしか、この感覚は動かないということなのかもしれない。

いまや「ソーシャルは危険だ」話がおおはやり。かくいう自分も、その手の原稿依頼や講演依頼をいくつも受け取っている。もちろん「炎上」などをめぐって、事態の深刻さは増しており、これはこれで必要な仕事だとは認識している。問題はこの論調をどこまで強めていくか。これは誰にもコントロール出来ない。特に「私は使ったことがない」という人たちは、聞きかじって理解した範囲の知識で危険性を語るので、当然「シェア」の積極的な意義とのバランスは意識されない(なくなっても自分たちにはなんの悪影響もない、と思っている)。かたやユーザの側も、「俺のTLには社会的に有用な情報なんてない」と自嘲することもあり、「シェア」の意義はあまり意識されない。

ソーシャル危険論が、リテラシー教育によって賢いネットユーザを作ることと放棄させ、SNSを地下に潜らせるだけの結果になれば、いつのまにか「ソーシャルメディアは愚民の使うもの」という評価が確立し、「シェア」の可能性はついえて、「ソーシャルメディアは死んだ」ということになるのだろうか。

SnapchatやLINEの流行は、その点新しい動きの現れといえなくもない。プライベートなメッセージのやりとりと、FacebookやTwitterなど、よりオープンな場所での情報のシェアが区別され、これがより人間の身体性に近いものとして確立していけば、案外技術がこの「棲み分け」問題をうまく解決してくれるのかもしれない。

「それでもまだまだ新潟には帰りたくない」理由はそれなりにもっともだ

先日書いた「私がそれでも新潟に住む7つの理由」には結構反響があった。根っからの新潟人ではない自分からの意見だということもあるだろう。

類似のエントリーを見ていたところ、「まだまだ帰れないなー」という首都圏在住新潟人の方の以下のエントリーを発見した。これはこれで、東京に住んでいた自分としてはかなり納得できるところだったので紹介したい。

それでも僕がまだまだ新潟には帰りたくないと思う、首都圏と新潟の違い。 | むーろぐ

新潟では、デジタルな流行が一足遅い

僕が大学生の頃の話ですが、周りの誰もがiPhoneやらスマホを持ち始めていた時、地元で成人式がありました。
その時にiPhoneを使っていたら友人に「iPhoneじゃん!!」と珍しいそうに驚かれたことがもの凄く記憶に残っています。

非常によくわかる。調べてみるとiPhone 3GSが日本で発売されたのは2008年7月。

6月29日は「初代iPhone」の発売日。歴代iPhoneの発表を振り返ってみる : ギズモード・ジャパン

新潟ではこの時期にiPhoneを手にした人は少数派だった。少数派の一人としてよく「流行りモノ好きのミーハー」扱いで話しかけられた。

ただし、その後2009年に新潟フォトウォークが始まり、2010年に新潟ソーシャルメディアクラブが発足、以後はこの手のタイムラグは、(自分については)ほとんどない。

東京と同じタイミングで、新しいガジェットや新しいものをトライする人たちのコミュニティが、すでにできあがっている。もちろんその外側の新潟人は今も保守的で、デジタルな流行には敏感ではないかもしれないが、まあ自分の周りにタイムラグがなければ、さほど困ることはない。

なので、転職して戻ってくることになったら、ぜひNSMCに参加してください。

新潟では車がないと話にならない

地元に住んでいる大学生は自分の車を持って人が多いです。車がないと移動手段がないからです。雪も積もりますし、車がないと話になりません。

大学まで車で通学なんてことは当たり前で、電車で事足りる首都圏とは違うところです。

これはたしかにその通り。車がなくても不自由な生活がおくれるよう、あらゆる設計を考えなおしていくべきだろう。新潟の規模ならば、まだまだできることはありそうだ。この点「新潟シモ古町 ときどき脳内マレー半島」が指摘する、コンパクトに暮らせる古町の利点は、もう少し評価されてもよいだろう。問題は、誰がそれを「評価」して、新しく移り住んでくる人たちのために、住環境を整備していくか、なのだが。
僕がそれでも古町に住む理由 | 新潟シモ古町 ときどき脳内マレー半島

【2】雨の日も傘なしで街を歩ける

古町通りは白山公園の交差点からシモの11番町辺りまで約2キロにわたって、長いアーケードが続く。交差する柾谷小路、本町通りなどもアーケードでつながり、さらに西堀通りには地下街があるので、このエリア内なら傘がなくても屋根伝いで街を歩ける。特に冬など天気の悪い日が多い新潟では大変助かる。

この街に慣れてしまうと、古町以外に出かけるときにも傘を持って来なくて「しまった!」と思うこともたびたび。

【3】クルマがなくともそこそこ暮らせる

地方都市ではクルマは必需品と思っていたけど、古町に暮らし万代で働くようになってからクルマはほとんど必要なくなり、手放してしまった。

寂しくなったと言われる古町周辺だけど、日常暮らす分にはそう不便は感じない。本町通りのイトーヨーカドー丸大に行けば何でも揃うし、スーパーやドラッグストア、100円ショップなどもあちこちにある。バスで万代まで行けばロフトや無印良品などもあるし、新潟駅まで行けば電器店やスポーツ用品店もある。あとはコメリ書房が本当のコメリになってくれれば申し分ない(無理か)。

日常の買い物だけでなく、病医院や銀行、公共施設などが揃っているのも古町の便利なところ。街ではイベントやお祭りも多いので、そこそこ退屈せずに暮らせる。用もないのに郊外のショッピングモールなどに行って、散財することもなくなった。

さて、「まだまだ新潟には帰りたくないと思う」理由に戻ろう。

新潟では、アニメの放送が少ない

これは新潟だけではない。テレビ東京系列がない地域すべてが、ほぼ同じ状況なのだが、まあ都会と地元を比較すると、たしかに大きな違いなのだろう(自分はアニメを見ることがほとんどないので、この渇望感は必ずしもわからないのだが、フジ系のない青森で80年代を過ごしているので、その意味で趣旨は十分理解できる)。この点、地方のアニメファンは、全国共通で共有すべきコンテンツとしてのアニメ番組、ということをもう少し声高に主張してもいいだろう。またこういう地域ギャップを放置して、何ら対策を取ってこなかったテレビ業界全体から、若い世代が離脱してしまうのは、必然だと言えるかもしれない。

新潟の天気は、ぐずぐずなことが多い
これはどうしようもないので、天気が悪いほうが冬は趣があってよい、と思われるような取り組みをしたらいいのだろう。天気はぐずぐずだが、幸い雪は少ないのだ。まだ何か工夫できるところはあるはずだ。

というわけで、「まだまだ新潟には帰りたくないと思う」理由が書かれていたので、自分なりに考えてみた。よくわかるけれども、それなりに工夫はできますよ、という感じだ。

このほか、前回の自分の「住む理由」エントリーへの反応として、こんなコメントがあった。

これは新幹線最終との接続の話。21:40東京発の最終で新潟駅に戻ってくると、すでに在来線は終了しており、新潟駅自身がすぐに「閉店モード」に入って、いくつかの入り口が閉鎖されるまでになる。たしかにもうちょっと、東京から帰ってきて在来線で帰る人のことを考えてほしいと思う。

結局地方の場合には、仕事の問題に行きつく。自分の場合には、仕事があるから新潟に来た、わけだが、圧倒的多数は、地元には仕事がなくて都会へ出て行く。これはどの地方都市も、要改善だろう。

敬和学園大学のソーシャルメディア、まだまだ伸びしろはある

敬和学園大学のFacebookページがようやく500いいねに到達した。

国際ダンスサークル 20130824

敬和学園大学 / Keiwa College

早くから取り組んだ割にはようやく、というところだろう。すでに万に達している大学公式Facebookページも結構ある。とはいえ、同窓会組織も弱い小規模校としては、これでも精一杯というところではないか。担当者がコツコツと努力した成果であり、今後も大学をオープンにする仕掛けとして、ますますの発信力強化を期待したい。

ともあれ、500いいねを超えたところで、あえてシビアに、敬和の情報流通のサイクルを見てみよう。
率直に言って、敬和学園大学Facebookページは、もう少し「がんばれる」はず。それには、取材力や発信力をアップすることが大事だ。広報の発信力も鈍化しているところもあり、マンネリを打破するとともに、瞬発力を持ってすばやく適切な言葉を投げかける力や、ここぞとばかりにヒット作を生み出す力をさらに磨いていきたいところだ。

一方、広報だけに頼らず、教職員がそれぞれの持ち場で「広報活動」をすることも大事だ(これは自分が教職員研修にもっと取り組むべきなんだろうと思う)。ベースに教職員それぞれの発信があり、広報部門がちゃんとそれを適切に拾い上げて(スルーするものはスルーして)いけば、より戦略的な広報が可能になるはず。おそらく現場の発信力強化は、多くの組織で共通に抱えている課題だろうが、大学も小規模の敬和のような組織では同じ。あんまり広報部門に頼らず、各部門が問題意識を持って情報発信をしてほしいと思う。

また小さな大学では特に、学生や卒業生の支持、情報発信も大事になる。学生からの情報発信というと、近頃は「炎上」の火種として警戒する向きもある(実際警戒しなければらないところはあるのだが)。しかし、学生団体の活動を「可視化」することは、小規模校で手応えを感じられていない学生たちが、外部と接触し、自信を持つためのきっかけにもなる。大学はこれを支援して、よい発信内容は広報がきちんと拾い上げる。また情報の流通においても、大学広報が「大声で叫ぶ」だけでなく、学生・卒業生がシェア、いいね、RTで広げていく、というサイクルも大事になる。特に、このサイクルをさらに加速させたいところだ。

私が顧問をしている国際ダンスサークルは、最近、がんばってFacebookページを更新している。

国際ダンスサークル

国際ダンスサークル 20130824

これは良い傾向だろう。また、Ustream番組「Keiwa Lunch」では、MCたちが学生の活動を紹介したり、ゲストが自分たちの活動について紹介している。

Keiwa Lunch 20130710

もちろん稚拙さはあるのだが、こうした訓練を通じて学生たちは、内輪受けではない情報発信の仕方について意識を高め、スキルを身につけているように思う。学問的に意義ある話をするわけではないのだが、過不足ない情報を含んだ話をして、なおかつ相手をひきつける話をするという能力を、こうした経験の中で、学生たちは培っている。最近Keiwa Lunchに出ている学生たちが、ラジオできちんと話しているのを見て、つくづくこのことを感じている。

敬和は勉強の出来る学校とは見られていないと、嘆く(あるいはあきらめる、あるいはいいわけにする)学生もいる。しかし学生にとってその現象は、自分を写す鏡でもある。適切に相手に伝わる言葉を発していれば、自分に対する見方も変わるし、学校に対する評価も少しずつ変わる(言動によって学校に対する評価が変わるというのは、もちろん自分たち教員も同じだ)。小さい学校なので、一人の行動が大学への評価を大きく上げもするし下げもする。敬和と自分をセットで否定された経験を持つ人もいると思うが、自分の働きで敬和の評価を上げている人もいる。少なくとも、Keiwa Lunchを含めて、自分と一緒に動いてくれているメンバーは、その多くが、「一人の行動で学校の評価を上げている」人たちだと思う。この学生たちは、自らの評価を高め、大学の評価も高め、大げさに言えば、大学の歴史を作っているともいえる(もちろんもう少し補強してあげたいところはあるのだが)。

教職員も学生も、みんなが表現力、発信力を磨くこと。さらに傾聴し、共感する力を高めること。これらをソーシャルメディア等で、表現し、多くの人と有意義なつながりを持つこと。ひとりひとりのこうした「つながり」の積み上げの上に、よいコミュニティ、よい大学は作られていくはずだ。コミュニティの力を体現し、さらに「つながり」を強化する仕組みとして、「敬和のソーシャルメディア」をさらに発展させていきたい。

新潟日報モア「新潟ソーシャル時評」:LINEやソーシャルで起こる出来事を大人も理解してほしい

8月27日新潟日報朝刊26面にLINE特集があり、コメントが掲載された。これにあわせて「新潟ソーシャル時評」にも記事を書いた。「ネットのことはわからん」といって放置することにより、あるいは、学校生活の表から消し去ることにより、「地下に潜った」若者のネットライフが、さまざまな問題を引き起こしているのではないかという見解を述べた。

「LINE」、便利さ危うさ隣り合わせ|社会|新潟県内のニュース|新潟日報モア

LINEやソーシャルで起こる出来事を大人も理解してほしい|ソーシャル編集委員 一戸信哉「新潟ソーシャル時評」|モアブログ|新潟日報モア

むしろ大人たちもスマートフォンやソーシャルメディアで起きていることを理解し、できればよい方向でこれらを利用するという姿を自ら示すことで、「若者だけが大人に隠れて使う」というのがネットの姿ではない、少なくともそれがすべてではないということを、自ら示していく。いわばそうした「父の背中」「母の背中」で、自ら範を示していくことが大事になってくるのではないかと思います。

プライバシー設定からLINE Playまで LINE完全活用ガイド

新潟日報モア「新潟ソーシャル時評」:Twitterアカウントから、政治家のこれまでの「実績」を確認

参院選公示前後から、「新潟ソーシャル時評」には、「ネット選挙関係」の記事をいくつか書いた。こちらは公示直前に、党首なりすましアカウントがいろいろ見つかったという報道について書いたもの。

そんなのに引っかかる人はあんまりいないと思うので、もう少し候補者のこれまでの取り組みをしっかり見るための手段として、ソーシャルメディアを活用する方法を、広めたほうがいいのではと提言したつもり。

User Chart

Twitterアカウントから、政治家のこれまでの「実績」を確認|ソーシャル編集委員 一戸信哉「新潟ソーシャル時評」|モアブログ|新潟日報モア

公職選挙法が改正され、ネット選挙運動が解禁されたわけですが、「選挙運動」それ自体は、これまで通り公示後に始まります。ただこれまでと違って、注目を浴びる公示後にも、ウェブの更新が行われることになります。その結果、「政治活動」として区別されている、日頃の政治家の皆さんの活動実績、これに関する情報発信の姿勢が、あらためて明らかになります。「にわかTwitterユーザ」であるかどうかも、容易に明らかになります。ただし、このことをきちんと評価するためには、有権者である私たちが、候補者の皆さんのこれまでのネットでの「実績」を解析するさまざまな方法を、きちんと身につける必要もあるように思います。「偽アカウント」に騙されず、本物のアカウントの日頃の情報発信の態度までも評価できる有権者が、どれぐらい増えるのか。有権者のネットリテラシーが、今後問われることになります。

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新潟日報モアについて:新潟日報モアは、新潟日報購読者向け無料サービス。世帯内で複数アカウントの発行は可能なので、新潟日報購読家庭であれば、すべての家族が登録可能だ。また、「購読予定」の人も登録ができるので、実は「これから登録しようかな」という人も、問題なく登録ができる(販売店が営業に来るのではないかと思う)。

新潟日報モア「新潟ソーシャル時評」:ラブラ2」に対するさまざまな反応

新潟日報モアに連載している「新潟ソーシャル時評」。その後Facebookページができたり、ソーシャルメディアボタンもうまく動くようになったので、こちらでの告知が止まっていた。すべての記事を紹介している余裕は無さそうだが、それなりに反応があったもの(ありそうなもの)を紹介するようにしたいと思う。

先月下旬に発表になった、新潟市万代の新しいビル「ラブラ2」については、ソーシャルでの反応を紹介しながら記事にした。

Bandai Bridge, Niigata, Japan

「ラブラ2」に対するさまざまな反応|ソーシャル編集委員 一戸信哉「新潟ソーシャル時評」|モアブログ|新潟日報モア

今回面白いなと思ったのは、

 

という反応。新潟に来てしまったブランドは、特別なものではなくなってしまう。わざわざ東京まで買いに行くものであってほしい。私はそのように理解しました。このユーザの声もまた、「全国行脚」をめぐる複雑な(?)人々の心をあらわしているように思います。

新潟日報モアは、新潟日報購読者向けのサービスだが、世帯内で複数アカウントの発行は可能なので、新潟日報購読家庭であれば、すべての家族が登録可能だ。また、「購読予定」の人も登録ができるので、実は「これから登録しようかな」という人も、問題なく登録ができる(販売店が営業に来るのではないかと思う)。

対話しない公式アカウントは必要か:新潟県のSNS運用指針作成から

読売新聞によると、新潟県がSNS運用指針を作成するという。

Narazawa Shrine Festival, Iiyama, Nagano

新潟県、SNS運用指針作成へ…「炎上」防ぐ : ニュース : ネット&デジタル : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

新潟県は、部局や県職員がインターネット上のソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)を使用する際の運用指針を作成する。組織として発信内容に責任を持つのが狙いで、今夏中にも庁内に周知徹底する。

 指針には、▽発信は庁内の部や課が主体となって行う▽発信内容は部や課で決める――ことなどが盛り込まれる予定で、県職員の勝手な運用や不用意な発信によってネット上のツイッターやフェイスブック(FB)などに批判が殺到する「炎上」や、県のイメージ低下などを未然に防ぐ。

はっきりとは書いていないが、文脈からすると、いわゆる「公式アカウント」「公式Facebookページ」の運用に関することのようだ。復興庁職員のTweet問題から、個人の発信を規制するという話になっていないのであれば、ひとまずは安心。しかし炎上を防ぐという観点からは、個人アカウントの動きも気になるだろう。

さて「公式」についてだが、「県職員の勝手な運用や不用意な発信」を防ぐため、「発信は庁内の部や課が主体となって行う」「発信内容は部や課で決める」といった指針を定めるようだ。たしかに担当者が1人で、本人の独断に全てをゆだねてしまうのはリスクが有るとは思う。ただ、それもまた、実効性があるかどうかはなんともいえない。というのも、情熱を持って、同じテンションでソーシャルメディアに取り組める人が、それぞれの部署に複数もいるとは、考えにくいからだ。もしそういう人が複数名用意できるのであれば、もっと利用が進んでいるような気もする。

ともあれ、「発信内容は部や課で決める」というのは、書き込む内容をすべて、部や課の単位で事前承認するということを意味するのだろうか?おそらく報道発表のようなものは、こうした形になっているのかもしれないが、TwitterやFacebookのようなメディアでもそれをやるのだろうか。やれないことはないだろうが、そこまで規制してしまうと、そもそもやる意味が薄れるように思う。過去に外務省のアカウントが、フィンランド大使館とうまく対話ができず、実はいちいち上司の許可が必要だったという話題があった。

朝日新聞デジタル:つぶやき交流、質問ごとに上司の許可 外務省、2問で完 – 政治

対話できないのであれば、通常のウェブページとあまり違いはないので、無理にソーシャルメディアを活用する必要はないのだが、対話するのであれば、いちいち「部や課で決め」てはいられない。ここに公式ソーシャルメディアの難しさがあるとは思うのだが、この問題を組織としてクリアする気がなく、「すべて組織的に決定してから発言する」というのでは、うまく運用することは難しいだろう。対話をしない公式アカウントは、よっぽどありがたい情報を提供してくれるのでなければ、決して支持されないと思う。現場に任せつつ統制も怠らない、という、絶妙なバランスを、きちんと考えるべきだ。Facebookページであれば、いちいち全部のコメントにはこたえないが、よいコメントにはいいねをおすとか、簡単なものには担当者が「電話応対」と同じようにどんどん答えていくというぐらいは、必要になるだろう。もちろん難しい問題については、組織的に対応できるようにしたほうがよい(組織内の調整をメールでやるのでは間に合わないので、即時性のあるメッセージングサービスやチャットは必要になるように思うが、、、ダメなんだろうなあ)。

おそらくこれは記者が想像して補完したのだと思うが、以下の様な記述もある。

ただ、今年5月、県村上地域振興局が山形県境の山「日本国にほんこく」(555メートル)の登頂者に記念の「日本国征服証明書」の発行を企画したところ、ネット上で「不適切だ」などと批判が広まり、同局が「登頂証明書」に急きょ名称変更するなど、ネット上では思わぬ批判が一気に広がる恐れがある。

この件を、村上地域振興局がソーシャルメディアで拡散したのかどうかは知らないが、これは「不用意な発言」の問題ではなく、「日本国征服証明書」の発行するという「企画」に対して向けられた批判だろう。こうした批判をうけないために、「発信内容は部や課で決める」というのであれば、批判されそうなことをソーシャルメディアでは発表しない、ということになってしまう。実際にはこの件は、ネット上ならばそんなに反対は強まらないような気がするので、ネットに拡散したほうがよかったのかもしれない。電話で批判するような人が出てきても、Facebookだとまた違う反応があったりして、担当者はむしろ励まされることもあるだろう。

個人的には、ソーシャルメディアの運用をコントロールするといっても限界があると思っている。最終的には組織の中で出来る限り信頼出来る対話力のある人を配置し、ある程度のチェックが働くようにした上で、運用していくよりほかないだろう。