「レッツノート・ビジネススキルアップ・アカデミー」での、津田大介さんとの対談について、「さとなお」さんが語っている。テーマは「ソーシャルメディア時代の個の発信術」。津田さんの語った内容はまだ確認していない(たぶんメルマガに載っている)が、非常に興味深い対談だったよう。さとなおさんの語っている内容だけでも、多くの示唆がある。ポイントは自らをさらけ出し、個人が個人として、発信力を高めていくということ。
Photo by Darwin Bell.
(写真は「さらけ出し」のイメージです。本文とはあんまり関係ないか)。
最初の記事は第一部でのお話の内容。
ここ10年くらいのネット業界で起こっているいろいろな出来事は、ほとんど1990年代中盤の日記猿人やReadMeとかで起こっていた。そして最近ソーシャルメディア上で起こっているいろいろな出来事も、ほとんどボクが「ジバラン」を主宰して経験したことや、オンラインゲームの「ウルティマオンライン」で経験したことだ。マウスイヤーで進んでいるように見えるネット業界だけど、実は歴史は繰り返している。だからボクはいろんなことにものすごくデジャブー感が強い。
そして回り回って、あのころ(1990年代末)「インターネットってすげぇ!」「世の中を変える!」と思った感じが、いま、ソーシャルメディアでようやく現実化された感もある。一時期、2ちゃんも含め「ネットの闇」ばかりクローズアップされ、ネットがネガで残念な存在になってしまっていたが、もともとインターネットというのは親密で温かい希有な技術だと思う。それがソーシャルメディアでようやく現実化されつつある。待ちに待った千載一遇感。だからボクはこの世界に本格的に身を投じてもっとこの世界を広げようと決意した部分がある。
というか、「個の発信術」とかいうお題が出ること自体が奇跡的だと思う。
この辺の話は、40代以上の古くからのネットユーザにとっては、かなり共有されているのだと思うが、40代以上でも、2000年代以降にインターネットを利用し始めた人はいるし、ましてそれより若い世代であれば、それ何の話ですか?ということになのだろう。僕自身ここ数年、インターネットの歴史について、なるべく学生に話すようにはしてきたが、一度体系的にまとめて、わかりやすく伝えるための作業が必要だなと実感しているところ。その意味で、さとなおさんの話には非常に共感し、参考にしたい表現であった。
「もともとインターネットというのは親密で温かい希有な技術」というのは、後からきた人たちとはあまり共有されていない感覚だ。いくら言っても紙にこだわって、ネットを非難する大人たちにイライラするのも、「個の発信」の価値よりも「無口な群衆」でいることに価値を置く学生たちにイライラするのも、この点での価値観の共有ができていないからであり、丁寧に説明するべき立場にいるのは自分なのではないか。そう思った。
たった20年弱前くらいまでは、何かを世の中に発信しようと思ったら、マスメディアに出るか、本を出すか、くらいしかなかったのだ。あとは広告クリエイターになるとかね。
でも、その場合でも、マスメディアや本や広告の文法やお作法に合わせなければならず不自由だった。自由な発信という意味では、個展や立会演説会や壁新聞みたいな手もあったが、発信できる範囲がとても狭い。
そう、ネットで「個」を自由に日本や世界に発信できるということは、当たり前のことではなく、実にラッキーな、中世や近世の人たちが考えたら、死ぬ程うらやましがられるような、すごいことなのだ。それを、しあわせにも、我々はこの手に持っている。
文明が誕生して約1万年。人類が有史以来手に入れられなかったものすごい恩恵。
個が自由に発信できていたら、もっと有名になったり、もっと世界をよりよく変えたりできた天才たちが山ほど歴史には埋もれていると思う。
そのことへの感謝の思いが常にあるなぁ。
運動音痴にスポーツの楽しさや価値をいくら説いたところで、そこに踏み出そうとはしない。最近学生たちとしゃべっていて思うのは、「発信音痴」というか、そこに向かう基本的な意欲や能力を欠いている学生の場合、「個の発信」の価値を説いたところで、あまり価値を感じないということ。
その一方で多少表現力のある学生は、ネットよりも紙の方が、手に取れる分、価値があると思っているんだなと感じることも多い。これはつまり、「個の発信」が可能になったという状態は、彼らにとっては当たり前で、土管のようなものになってしまっているのではないかということ。
紙に価値がないとはいわないが、学生一人一人が、今すぐ無料で、「個の発信」をし、多くの人と交わりを持てるというのが、どれだけ稀有なことか。20数年前に、言いたいことはあるが発信手段を持たない、東京在住の一学生だった自分には、とてもよくわかることなのだけど。情報発信の手段は当たり前にあるが、発信する表現力を持たない学生たちには、なかなか響かない。もっともっと、彼らの潜在的な表現欲求を引き出すような工夫を、していくべきなのだと思う。
後半のテーマは、「企業の中の個の発信」。
ボクは、ソーシャルメディア時代、「個であること」ほど、大切なことはない思っている。
独立してひとりで生きろ、とかノマドしろとか、そういう意味ではなく、組織や肩書きに頼らず、「自分」を晒して生きることがとても大切だと思っている。
なぜなら、ソーシャルメディアは「個」と「個」のつながりでできているから。
「個」と「個」のつながりのみででき上がっているメディア上では、「個である自分」しか人はつきあってくれない。
大学教員という肩書きは、役に立つような役に立たないような微妙なもので、それによって多少こちらの話を聞いてもらえるようになりそうなときには、自分自身それに頼ってしまうこともなくはない。面倒くさそうなので近寄ってきてもらえないというのもあると思う。ともあれ、ソーシャルメディア上では、価値ある情報発信ができるかどうかが大事で、肩書きはほとんど意味がない。いや、誰が言っているのかを人は見ているので、厳密には意味がなくはない。しかしネット上には、その人の過去の発言や発信内容が蓄積されていて、それ自身が信頼の源泉になるのであるから、○○株式会社とか○○大学といった所属先よりも、こちらのほうが頼りになる、というわけだ。
有名大学の学生になれなかった大学生にとっては、この構造は非常に大きなチャンスだと思うのだが、実際にはそううまくはいかない。有名大学の学生でなくとも、「発信力」のある学生であれば、その人の評価は蓄積するのだが、残念ながらその割合は低い。そもそも「発信力」のある学生というのは、どこの大学でもきわめて稀な存在だ。卵と鶏の関係にあるというべきか、彼らを評価する企業側も、学生の「発信力」をポジティブに評価する体制にはない。期待するほど「発信力」のある学生はいないので、「ソー活」とはいうものの、問題発言をしてないか、ネガティブな方向にチェックしているのがほとんどのようだ。
「組織や肩書きに頼らず、「自分」を晒して生きる」人は、おそらくどんどん増えている。こうした若者たちはきっと、これからの社会のリーダーになっていくだろう。一方、その境地に至ることができない多くの人々を、どのようにエンカレッジするか。それは、僕がこれから細々と取り組んでいくべき課題だと思っている。
「痩せた頼りない自分」というフレーズ、とてもいい表現だ。「痩せた頼りない自分」をさらけ出し、他者とつながりを持ち、共感を得る。あらためて、実践していこう。
三つ目の記事は、「痩せた頼りない」個人同士の、相互理解の可能性について。これも非常に共感できるお話であった。
このテーマでは、藤代さんの「発信力の鍛え方」もオススメ。学生にもわかりやすく、非常に平易に書かれていて、それでいて、非常に説得力がある。