人と話すことの終わり


先日電話の終わりを宣告したTechcrunch(音声電話は死んだ)。続いて、「話す」ことの終わりについて書いている(もちろん、象徴的に)。
人と話すことも終わりだね–だんだんと
この手の話、ネット文化に慣れ親しんでいる層は、割と冷静に、話し半分ながら「たしかにそういう方向には向かっているね」という冷静な受け止め方をする。しかしそうではないマジョリティの人々、たとえば、僕が大学でお話しする学生、あるいは教職員の皆さんの大多数は、「そんな非人間的な世界なんてとんでもない。やっぱりちゃんと面と向かって話さなきゃ」と、拒否反応を示すであろう。ただこうした層の人々も、セールス目的の電話や訪問はいやだというわけで、対面ならなんでも歓迎というわけでもない。
ネットが普及してすぐ、メールで連絡するか、ファックスか、電話するか、といったコミュニケーションの仕分けが行われた。当時の「マナー」といわれたものが、どの程度いま生き残っているのかわからないが、いろいろ変化しているのは間違いない(メールじゃなくて、ファックス、というのは、やむをえない代替手段であろう)。電話は相手の都合を考えずにかけられるものなので、緊急でないものはメールで、というのは、かなり確立された作法となってきたように感じる。
とはいうものの、一方でこの前も、「大事なことなので、メールじゃなくて文書で」というようなやりとりをどこかできいた。紙が「正式」という感覚は、僕の中にはもうほとんどなくなってしまっているのだけれど、そうした感覚はどうやらまだ、人々の意識のどこかに残っているようだ。紙だとScansnapにかけてEvernoteに読み込ませるまで、余計な時間がかかり過ぎる、とは、世間の人は思わないのだ。文書の真性さは、依然として紙の形でなければ保証されないと考えられている、という意味でもあろう。
直接リアルで向き合って会話することの価値は、紙よりもさらに強固に、人々に認められている。それは対面することで生まれる信頼関係のようなものを、人々が信じているということだと思う。ただ「信頼関係」は、対面ならば生まれやすいとは、必ずしもいえない。話すタイミングが悪くてかえって話がこじれる。声の大きな人が会議をリードして話が進んでいるけれども、実際にはコンセンサスを得られていない。など、リアルで向き合うが故の弊害がないわけでもない。表面的には合意できたように見えても、実は腹の底は違っていたなんていうのも、よくある話。
メールもまた厄介だ。メールで議論がされ始めると、少し目を離すと議論から取り残される。最近はメールから離れるようになったからか、自分もメールの議論から取り残されることが増えた。でも逆に、メールの返事がこないがために、仕事が滞り、はらはらすることもある。それならば、みんなで集まって、一気に決着させるとか、電話で確認した方が早いという面もある。ホットな話題を抽出する、FacebookやTwitterのような仕掛けを、メールのコミュニケーションにもうまく取り入れることができないかと思うことも多い。
多様なコミュニケーション手段が確立され、人々の作法も徐々に変化している。この変化のスピードが速い文化圏と遅い文化圏があり、僕は両者にまたがって暮らしているので、潜在的な摩擦を感じることも多い。あまり無礼なこともしたくはないけれども、効率性が高く、お互いの相互理解を促進するような、コミュニケーションの形式を、その都度開拓していきたいものだ。

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