Jungさんのこと


大学院同期のJungさんが、10日の未明に亡くなった。
本当にあっという間だった。

彼の病気のことを僕が知ったのは5月の下旬。Jungさんの奥さんのお姉さん(お姉さんは僕らの大学院での先輩でもある)から突然連絡があり、衝撃的な知らせを受けた。すでに病は進行しており、医師の勧めもあって韓国へ帰国したが、帰国の際、病気のことはほとんど誰にも伝えられなかった、と。ただ家族には、帰国の際に知らせがあったので、お姉さんから僕あてに連絡があったわけだ。そこから数えると、わずか3週間。この時点ではまだ詳しい状況がわかっていなかったが、まだ時間の猶予はあるような様子であった。その後いろいろ状況が分かり、やはり早いうちに見舞い
に行かなくてはと、上海から帰国後、大学院同期の友人たちに連絡をし始めた。そこからわずか数日。その間にみるみる容体が悪化し、僕らが日程を調整して韓国に向かう前に、最期の時が来てしまった。まだ実感はない。ただただ思い出があふれてきて、悲しいばかりだ。

何もできないが、思い出を書き留めておきたい。

大学院時代、Jungさんは気のきく年上のまとめ役で、まじめだが融通が利くとは言えなかった僕たち日本人院生たちを、さまざまな形で盛り上げて
くれた。入学してすぐに、新宿のコリアタウンに連れて行ってくれたのも、Jungさんだ。90年代の職安通り界隈には、今のような親しみやすい店はなく、一見さん
の日本人が入って行けないような店ばかり。Jungさんは僕らをこうした純コリアンな店に、何度も連れて行ってくれた。僕らは恐る恐るその店の辛くて高い料理を食べ、韓国焼酎を飲み、韓国カラオケを歌った(あるいは聞いた)。「いかソーメン」という名の「いか及びソーメン」(いかをソーメン状に切ったものではなく、いかとソーメンを辛いソースにあえたもの)とか、「オアシス」(辛いばかりの韓国料理が並ぶなか、たまに全く辛くない食べ物)といった用語は、この頃、新しい食の世界にとまどう僕らが、新宿の店で生み出したもので、今でも再会した時に登場する用語だ。支払いはいつも、彼がいつの間にか済ませてくれていた。

僕は大学院を出てからも、たびたびJungさんのなじみの店に連れて行ってもらった。二人でお店に行くと、電話がよくかかってきて、「ヨボセヨ!」と電話を受けた彼は、韓国語のみの店内に僕を放置して、長い間電話でなにごとかを話していた。電話をきって少し僕と日本語で会話をした後、また電話が鳴って「ヨボセヨ!」となることもよくあった。彼の友人と同席し、彼らの韓国語での会話についていけないまま、僕は深夜に呆然と座っていることもあった。一時期は、Jungさんに連れられて行った店に後日別件で行き、Jungさんとお店で会うこともあった。「こいつは俺の連れて行った店に、いつも一人で行くんだよ。」と、他の人に話していたが、その時の顔は、いつもどこかうれしそうだった。その後有名店になった、新宿のカムジャタンの店「松屋」にもよく連れて行ってもらった。夜中に呼び出され、次の日仕事があるのに3時すぎまで飲んだこともあった。Jungさんは僕にとっては兄貴分で、話は上手で人づきあいもうまく(大学院でも、事務スタッフや先生との距離の取り方がうまかった)、日本と韓国、どちらの社会ともうまく距離を保っていた。僕はひそかに尊敬していた。ちょっと短気なところがあり、変なところで腹を立ててからんで行きそうになるのが玉にきずであった。たまに僕がいさめることができていたとすれば、それが唯一、僕がJungさんの役に立てたことかもしれない。

Jungさんは90年代後半、実業家として、日韓関係に関わるいろいろな分野でチャレンジをしていた。僕は働き始めてからも、仕事の後、明治通り裏に借りたオフィスによく行き、書類作りなどを手伝った。彼が韓国語の文書を口頭で翻訳し、僕が日本語で打ち込むというような「共同作業」をよくやった。仕事の後で眠くなり、文書のレイアウトなどを適当にごまかそうとすると、細かいところに注文をつけられた。「俺は(パソコンはダメだけど)、早稲田の厳しい研究室で学んだんだから、書類のディテールの間違いにはすぐ気がつく」と冗談を言っていた(本人の名誉のためにいうと、パソコンはその後それなりに使うようにはなった。あんまり好きではなかったと思うが。)韓国サッカーチームの試合をネットで見るために、オフィスのISDN回線で、韓国のサイトに接続できるよう、一緒に設定作業をしたこともある(結局接続が遅くて見るに堪えなかったが)。作業をしながらよく、新宿飯店から出前をとり、韓国風中華のチャンポンメンやジャジャメンを食べた。新宿飯店の味は、このころの思い出の味だ。

その後僕は稚内に引っ越し、彼も韓国に行っていた時期があったりして、会う機会は減ったが、それでも時々東京やソウルで会うことはできて、いつも何か協力できないかを話し合った。僕が彼を助けてあげられたことは少ないが、彼にはいつも、さまざまなアドバイスや助力をしてもらった。サッカー、韓流など、彼は常に時流を読み、どんどん人脈を広げ、メディア関係の新しい仕事にチャレンジしていた。僕もまた情報ネットワーク法分野の研究者として、当初とは違う形での研究を始めていて、互いに補完し合える関係でもあった。実際には、彼の繰り出す様々な話題から、僕が学んでいることが多く、2000年代初頭には、日本に先行した韓国のネット社会の現状についても、いろいろ教えてもらった。

2003年の夏には稚内にも来てくれた。大韓航空機撃墜事件から20年を記念した取材で、僕も一緒に取材先を回った。稚内全日空ホテル屋上のバーで、MBCのスタッフとともに盛り上がり、さらに稚内市内の店で深夜まで飲んだのも、懐かしい記憶だ。韓国から来たスタッフを帰した後、もう一日残ってくれたのもうれしかった。このころ新宿に開店した、サンギョプサルの「とんちゃん」に連れて行ってくれたのも、Jungさんだ。その後「とんちゃん」が大人気店になってからも、しばしば連れて行ってくれたし、社長にも紹介してくれた。稚内の学生3人を東京に連れて行った時も、この店でごちそうしてくれた。

結婚にあわせて、曙橋界隈で暮らし始めたころには、何度も泊めてもらった。布団もあるからいつでも泊まりにこいと言ってくれて、一時期上京するたびにお邪魔していた。いつも鍵を持たせてくれ、我が家のように何日も居候させてくれた。お二人は忙しくて深夜まで会うことができず、僕は別の友人と会ってから深夜に帰ってきて、ちょっと話すだけで、翌日早朝に稚内に帰るというようなこともあった。いつもお二人に会うのは楽しく、夫婦のちょっとした言い合いにも、二人の仲の良さはにじみ出ていた。結婚するまでにはいろいろ大変なこともあったのだけれども、二人が出会い、結婚して、一人で格闘してきたJungさんの生き方も変わってきたなと感じていた。先月終わりに、Xactiのデータを整理していたところ、二年前に赤坂で食事している時のビデオが出てきた。野菜たっぷりの韓国焼肉で、「模範演技」として肉をほおばってみせるJungさんのにこやかな笑顔が映っていた。幸せな時間が流れていた。もっと流れていてほしかった。

3年前に弟が他界した時にも、Jungさんのところに泊めてもらった。日々絶望的な状況が続き、かける言葉もなかったであろうに、何も言わず、ずっと泊めてくれて、答えようのない話も聞いてくれた。あのとき僕らを支えてくれたお二人が、今回、苦しみ、辛い別れの時を迎えたというのに、僕は何もせず、ただ、彼を遠くから見送るだけになってしまった。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

最後に電話で会話した際には、これからしばらく韓国を拠点に仕事をするといいながら、大学院時代の仲間たちの様子を気にかけていた。僕も実はみんなの状況をあまり知らず、むしろ彼の方がいろいろ断片的な情報を持っていて、そのうち集まれるようにちゃんと連絡を取るようにと言われた。でもJungさんもいないし、そのうちにと思って、のびのびになっているうちに、まとめ役のJungさんがこの世からいなくなってしまった。

僕に様々な力を与えてくれた、無二の親友であるJungさんは、何も言わずにこの世を去った。人と人は、いつかこの世で別れる時がくるのだけれど、今回の別れは、とりわけ衝撃的で痛みが大きい。もっともっと、いろんな力や刺激を与えてほしかったし、僕からはこれから、もっと恩返しをしたかった。いや、そういうことよりなにより、単純に、これからも末長く、親しく付き合ってくれる友達でいてほしかった。

Jungさん、17年間にわたり親しく付き合ってくれて、どうもありがとう。本当にありがとう。同時代を生きた仲間だから、何を教えてもらったのか、まだ整理はついていないけれど、まちがいなく僕は、あなたから多くのことを教えていただきました。あなたから受け取ったものを、僕はこれから、広げて、発展させて、残りの人生を生きていこうと思います。大変お世話になりました。

R.I.P.

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