リベラルアーツ教育と学び続けられる力


僕の所属する敬和学園大学は、人文学部一学部の「リベラルアーツ」の大学と紹介される。この不況は、人々の実学志向をさらに強めるとするならば、「リベラルアーツ」の大学には逆風となるのかもしれない。

「実学主義」に対置される「教養主義」(対置されるものなのかどうかはよくわからない)が、この時代の中でどのように追求されるべきかは、そんなに簡単なことではなく、「全人教育」というような、耳触りのよい言葉を言うだけでは、なかなか説得力を持たないだろう。

「大学を考える」にも先日、以下のような記事が出ていて、考えさせられた。僕自身考え続けているテーマであり、非常にさわりにくいテーマでもあるが、少し思うことを書いてみたい。

リンク: 注目が集まるリベラルアーツ教育について考える | 大学を考える.

ただ、このリベラルアーツを学ぶためには、学生本人が、積極的に自分のテーマを見つけるという行動が不可欠です。
幅広く学んでいくわけですから、その中で自分のテーマをしっかりと持たないと、4年間経った後「いろんなことを学びました」の一言で終わってしまいます。
それでは、昔の「一般教養」を4年間やった、というだけになってしまいます。

法律なら法律、物理なら物理、その分野の大学院に進めるぐらいになるのが理想的。
学部卒で就職するにしても、自分がどのように考えてテーマを選択したのか、ということは、ある意味、さまざまなオプションの中から最適の施策を選び出すというビジネスの場にも通じるものがあります。

僕自身は大学で、ゼミのほか、共通基礎科目としての情報系科目を担当している。学生たちの多くは、「パソコンの時間」とか「情報の時間」として、カリキュラム的にも外付け的に理解し、適当にお茶を濁して終わらせようとする。ゼミにもなかなか学生は集まらない。その辺のもどかしさを感じつつ、僕が一貫して追求しているのは、その時点でもっとも先進的な情報の受発信手段を会得させること。逆にこれさえできれば、つまみぐいと批判される「教養主義」の中で、あまり深く追求できなかったことについても、将来自ら必要に応じて学び続けられる(というのはいいすぎかもしれないが)。

上の記事の中でも、「その分野の大学院に進めるぐらいになるのが理想的」としつつ、「幅広い教員を揃えないといけないので、お金はかかりそうですけどね」と結ばれている。大学院に進めるぐらい、というのが、目指すべき専門性の水準であるのかは議論が分かれるかもしれないが、お金をかけて幅広い教員を揃えることの必要性は、肝に銘じるべきであろう。しかし現実にはそれだけの経営体力を持つリベラルアーツの大学は少ないだろうし、そもそも日本にそれが成り立つ基盤があるかというと、非常に心もとない。そういう現状を追認する中で、幅広い教員を揃えるという目標は棚上げされ、忘れ去られているケースも多いだろう。

一方で時代は変わりつつある。教育研究のためのコンテンツ自体は、どんどんオープン化している。テキストであれ、論文であれ、必要な資源へのアクセスは、分野の差こそあれ、どんどん容易になってきている。それでもなお、リアルに対面教育を行うことができる質の高い教員のいる意義は消えないけれど、それを補完する情報リテラシーを学生に持たせることは、大学教育の中でもっと重視されるべきだろう。また、自らアクセスして自主的に学ぶような学習態度を植え付けるだけでなく、教員も教え方に変更を加え、学生の進度に応じた個別の対応をするとか、自主的な学びと相乗効果を生むような参加型の授業を追求するというようなことも必要だ。教員だけでなく、メンターの役割にももっと注目すべきであろう。

「リベラルアーツ」のコンセプトも大事だけれども、それと同時に、学びを支える「システム」的側面をきちんと考えるべきだし、後者によって改善できる部分が、実は多いような気がする。また「システム」の整備が、ともすれば横の連携が見えにくい学部教育の中で、「串刺し」的な横断的理解をサポートするようになるような気もしている。

最近読んでいるのは、以下の本。

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