「日本文化」の文脈で「死刑」を語るべきなのか?


僕は「応報」という意味で、死刑の維持を求める人の気持ちが、理解できないわけではない。しかし、保岡法務大臣の死刑制度に関する発言には、正直言って、違和感を感ぜざるを得ない。

リンク: 保岡法相:「終身刑は日本文化になじまぬ」 – 毎日jp(毎日新聞).

法相は「真っ暗なトンネルをただ歩いていけというような刑はあり得ない。世界的に一般的でない」と述べた上で、「日本は恥の文化を基礎として、潔く死をもって償うことを多くの国民が支持している」と死刑制度維持の理由を述べた。

他人を殺したかどうか、重大な犯罪を犯したかどうか、このような現世で語られている基準によって、一人の人間を殺すかどうかを社会的に決定しているのが、死刑という制度だ。終身刑と死刑の大きな違いは、終身刑にあった人が「真っ暗な道をただ歩いている」かどうかを検証可能だけれども、死刑の場合には、「潔く死をもって償う」という気分になったかどうか、「真っ暗な道をただ歩いている」よりはよかったかどうか、少なくとも死刑になった人が刑執行後どのように思ったかを、確認することがまったく不可能だという点だ。

僕は、そのような社会的に検証できないようなものを制度として維持するのは、もうそろそろやめられるよう努力すべき段階にあると思う。自分の家族を同じように検証不能な立場に追いやられてしまった遺族にとって、犯罪者が同じ立場に置かれることは、非常に重要だということ(それぐらいの報いを受けて当たり前だと考える)はよくわかる。僕はその立場に立たないが、そのように思ってしまうのは理解できるし、社会がその気持ちにどうこたえるかを考えるのも大事なことであろう。

しかし今の社会では、その人をこの世から抹殺してしまう「死刑」は、その先を宗教によっても十分規定できていない、「想像の領域」にその人を送る制度のままだ。ただたんに、死んで、「無」がやってくるのかどうか、その点も検証不可能だし、死刑が執行されてどうだったかを、死者に確認して回ることは不可能なのだ。

それでもなお、死刑を維持するという意見を僕は完全に否定することができないが、少なくとも、死刑というのは、社会的にもそれだけの「重たい」決断を伴う制度なのだと思う。だからこそ逆に、上のような発言が出てしまうのかもしれないが、この話を「文化」とか「潔さ」で法務大臣が語ってしまうのは、妥当とは思えない。そんなものは、現世の、日本の中だけで通用する事柄であり、軽々に口にすべきではないだろう。

責任者がこの問題に肯定的にコメントするのは、現行制度を預かる者として当然であるとは思うが、その職責を担ったことにより、重い十字架を背負い、地獄に落ちるような覚悟を持つならば、上のようなコメントはできないのではないかと、非常に強く思った。

(8/3 11:36 加筆修正)

1 個のコメント

  • その通りですね。軽々しく何かの例えをもって、例えばそれが日本の風土だとか、逆に安易に死刑を法律の名を借りた殺人と切って捨てることも両方ともに安易すぎるでしょう。
    一番重要なところは国にとっては秩序の維持でしょうが、個人的には報復にあると思っています。この報復が良いか悪いかなんてものは、自分以外の議論で簡単に片付けられるものではありません。
    もし自分の家族が、残忍な方法で殺害されたとして、懲役刑などで済んだとしたら、私は確実に報復するでしょうね。昔は敵討ちみたいなことがありましたが、私は国が秩序を守るために、個人が持つ報復権を取り上げたと思っています。
    しかしながらこの考え方は新たな恨みを生む可能性があることも理解できます。やられたらやり返す的な考え方は未熟ではありますね。ただ世の中が未熟な場合、重い刑罰が抑止力になるのも事実だと思います。

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