昨日秋葉原で、Ustreamを使った生中継をしていたKenanさんが、配信していた時の心情について、記事を書いている。
リンク: Recently – 秋葉原刺殺事件に遭遇して.
実際、すぐ隣で蘇生術ほどこされてる重傷の人とか、止血ようの布とか散らばってて生々しかった。
これはただの報道ごっこであり、そんなの撮るんじゃない。不謹慎だ。とか思われるだろうし、警官の人にも「人の不幸を撮って楽しいか?」とか言われました。たしかに最初は面白そうだし、映像のネタになるだろうから。。。というのが配信をした動機だし、配信初めて視聴者が1000人超えた当りでかなり興奮しててただ撮ることに必死でした。
これはかなり楽しんでいたと思います。
「楽しんで」しまったことを率直に語っていることについて、率直さを評価する声もある反面、かなり強い批判もコメント欄などに出始めている。
僕個人は、Kenanさんの行為を非難する気にはなれない。僕が現場にいたら、たぶんUstream中継まではしなかったと思うが、被害者の写っていない現場周辺の写真は、撮っていたような気がする。報道写真を見ていて、苦境にある人々の写真をこうやって撮ることは、たぶん僕にはできないだろうと、いつも感じる。でも記録する機器があって、記録する欲望を感じるという心情は、理解できる。
ちなみにFlickr上の写真では、ひげだるまさんの写真に迫力がある(容疑者、被害者の写真はない)。
「GIGAZINEの事件報道にウェブの明日を思う – novtan別館」では、未確認のタレコミ写真を容疑者逮捕の瞬間として報じたGIGAZINEを批判して、以下のように述べている。
ただ、報道のありようというのは変わって行くかも知れない。もはや速報的に現場を記録することは報道カメラの役割ではない。歩く人の大部分がカメラマンの
役目を担うことが出来る。Webに掲示することが出来る。そこにないのは「報道としての選別」である。果たして、今見ているものは真実なのだろうか。
ウェブメディアのGIGAZINEだからといって、「選別」なしで未確認情報を掲載していいのかという批判である。
同様に「シロクマ日報 > 秋葉原通り魔事件とデジタル野次馬 : ITmedia オルタナティブ・ブログ」では、「『NHKがインターネット上にアップされていた写真を使う』ということに、時代が確実に変化したことを感じました。」として、「僕ら全員が知らないうちに『市民記者』になっている」状態を示唆しつつ、以下のように警鐘を鳴らしている。
であるならば、「普通の人々が記者になるとはどういうことか」という問題は、オーマイニュースやJANJANに登録している人だけが考えれば良い時代では
ないと思います。僕自身、マスメディアを批判する文章をよく書いてしまいますが、その矛先は同時に自分自身に向いていることを自覚しなければならないで
しょう。でなければ、「自分だけでなく他人の野次馬根性も満たす」という点で普通の野次馬よりもタチの悪い、「デジタル野次馬」に成り下がってしまうと思
います。
今回のような場面で個人による現場での記録は、ある種の公共性を帯びつつも、同時に、下世話な野次馬的性格もあわせ持つ。両者のバランスを、既存マスコミは、それぞれの立場で選別基準を設ける形でとっているのだが、実際にはそれとて、本当に社会的に妥当性が認められているわけではなく、基準もまちまちだ。個人については、一人一人が自分の倫理観に照らして判断するしかないのだろう。
先週の白浜シンポジウムでは、藤代裕之さんが「ジャーナリズムは人々の日々の記録活動」という鶴見俊輔氏の言葉を紹介しつつ、一人一人の発信者としてのリテラシーを強調していた。
#「危なっかしさを認識しつつも前を向いて進もう」という主張は、「あぶなっかしいビギナーからはパソコンを取り上げて、もっと自由度の低い(あるいは簡単な)機器を持たせるしかない」という情報セキュリティ関係者の悲壮感漂う意見の中では、異彩を放っていた。
写真や映像などの記録活動は、将来別の形で価値を生むことがある。どんなにひどい記録でも、100年後には関係者のさまざまな思いは消えて、貴重な記録になるということがありうるだろう。最近の僕は、次々に親族が世を去ったということもあって、そんなに遠くない未来に消えていく自分の記録を、少しでも足跡として残しておこうという気持ちになっている。それが何の役に立つのかわからないけれど。
2008年の記録の作り手には、カメラを持っている人全員がなりえる。それだけに、この「可能性」を生かせるような、個々人の倫理観や情報リテラシーということについても、これから考えていかなければならないと感じる。
やりきれない事件
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