大学基準協会は24日、大学評価の結果を発表した。
僕の所属する敬和学園大学もめでたく適合認定を受けた。新潟県ではこのほか、新潟工科大学、新潟青陵大学、新潟薬科大学の名前があった。
リンク: 財団法人 大学基準協会 – 評価事業/大学評価/公表方法・評価結果/2007(平成19)年度「大学評価」の結果について.
この認定を受ける準備作業に僕はあまりかかわっていないのだけれども、間違いなくかなりの労力がかかっている。学内関係者のご努力にまずは敬意を表したい。世間の人は、敬和学園大学のような小さな大学が、基準協会の適合認定を受けているということを知らないだろう。知ったところで大して関心を示さないような気もするが、きちんと広報活動の中身には含めておいたほうがいいと思う。
一方で、世間の関心は、初の「不適合」認定のほうに向けられている。
いい方は話題にならず、悪い結果だけが大きく取り上げられるのは世の常だ。
リンク: asahi.com:宇都宮共和大に初の「不適合」 認証機関「財務悪い」 – 社会.
宇都宮共和大は、改称前の那須大だった04年度に同協会の評価を求めたが、大幅な学生の定員割れと財務状況の悪さを指摘され、判定を保留された。人口の多い宇都宮市にキャンパスを設けるなど改革に取り組んだが、期限の07年6月末までに改善できなかった。
同大の岡田一成事務局長は「協会の評価を真摯(しんし)に受け止めたい。少子化に加え、県内の高校生の約7割が県外に進学する厳しい状況ではあるが、指摘のあった学生の受け入れ改善に引き続き努力したい」と話した。
大幅に定員を割り続ければ、財務状況は当然悪化する。大学として存続するためには、学生が集まる大学に生まれ変わるしかないのだが、地方の大学は、立地条件の悪さが学生の集まらない最大の原因であることが多いので、自らの努力で改善できる範囲は、おのずと限られてくる。
宇都宮共和大は、那須という地の利の悪さを改善すべく宇都宮にキャンパスを併設し、実質的に宇都宮メインで授業を展開することにしたのであろう。新キャンパス名を宇都宮「シティ」キャンパスとし、新学部名を「シティライフ」学部にしたあたりに、その意気込みが感じられる。が、本部である那須キャンパスを閉鎖したわけではない。本拠地の那須をひきあげるのは、恐らく手続的に難しいのではないかと思う。過去にはたとえば、北海学園北見大学が、札幌に移転して北海商科大学となっているが、「もぬけの殻」となったであろう北見キャンパスは、依然として学校法人北海学園のキャンパスの一つとして挙げられている。
あまり考えたくないことではあるが、政府からはこの評価認証制度と、研究費等の補助金の傾斜配分によって、大学の締め付けがじわじわと進められていくことだろう。解散命令が出る前に、自主的に解散するように仕向けられていくような感じだ。かなりの数の大学が、いずれ施設・教職員もろとも吹っ飛ばされていくのだと考えると、そら恐ろしい気持ちになるのだが、これは多くの大学がもっとシリアスにとらえるべき現実なのではないかという気もする。ここでも世代間ギャップは存在しているのかもしれない。上の世代はあと少しの時間、今のアンシャンレジームが生き残ってくれれば十分かもしれないが、30代、40代の教職員は、この先の荒波に確実に巻き込まれていく。とすれば、もっともシリアスに考えるべきなのは、30代、40代の、中小の、地方の、大学の教職員ということになる。僕はぴったり当てはまる。
もし上のような最悪のシナリオには向かわず、多少軟着陸ができるとすれば、大学間の「合従連衡」が本格化するということだろうか。昨年、共立薬科大学が慶應義塾大学に合併されたように、学校法人間の合併が進んでいくとすれば、それぞれの法人の経営の自由度は増すことになる。そうなれば、銀行と同様にドラスティックに大学の整理統合が進んでいくことになる。北海学園北見のように、元の「本拠地」を引き上げる大学も続々と出てくるだろう。もちろん、合併される側の教職員の雇用が保証されるとは限らないし、経営母体も変わるわけだから、さまざまな軋轢が予想される。雇用に不安がある人たちは合併自体に反対するであろう。もっとも、施設にも人材にも魅力がないのに、ただ定員増加のために経営難の大学を引き受けてくれる大手の学校法人があるとも、あまり思えない。魅力はあるけど地の利が悪いとか、ブランド力がないとか、そうした例外的な一部の中小大学にしか、救いの手は伸びないかもしれない。地の利が悪い場合には、恐らくその施設にもあまり魅力はないので、結局は人材に魅力がなければダメだということになるのだろうか。
一方大学の淘汰が進んでいくと、大学関係者の外側では、地域の高等教育機関をどうやって存続させるかという問題が、近い将来さらに鮮明になってくるだろう。各大学はおそらく、合従連衡を経て、経営しやすい場所に、徐々に定員を移していく。子どもたちが都会にシフトしていくスピードよりは遅いけれども、それでも確実に、受験生の需要に「地理的」にも応えていく方向に向かうと思う。都市への移行がスムーズに進んでいった場合、大都市以外の私立大学は、ほとんど無くなってしまうかもしれない。もちろん現状においても、多くの受験生の関心は大都市に向かっているのであり、需給バランスというレベルではある意味適正な方向に向かうことになるのだが、地域住民に高等教育の機会を提供するという行政の役割、さらには地域のリーダーを都会に送らずに育てる(というのがいいのかどうかは議論がありそうだが)という目的から、規模は小さくとも、地元に大学を残すというのは、地方都市では非常に重要なことになるだろう。でも、偏差値の低い大学では、高等教育の機会は提供されるが、地域のリーダーになるような立派な人材が育つとはみなしてもらいにくいので、ますます存在意義を問われることになってしまう。また、若者が出て行ってしまうような都市では、地元に大学を残すために財政出動をする余力が、ない場合が多いだろう。
「教育コンテンツ」それ自体は、どんどん流動化し、場合によってはネット上に無料で、さまざまな学習機会が保証されている。梅田望夫さんのいう「学習の高速道路」だ。たしかに大学に行かなくとも、高いリテラシーさえ備えていれば、非常に多くのことが自力で学費を払わずに学べてしまう。そのアクセスコストは今までとは比べ物にならないほど安い。
にもかかわらず、これだけの数の大学という組織に、それなりの社会的コストをかけて、「高等教育機関」として物理的に存在させることの意味が、今後さらにシビアに問われてくるだろう。研究型大学とは別に、「教育型」というのが想定されているけれども、そのコストを本当に、社会は負担してくれるのだろうか。いまはその社会的合意がなく、大学の世界でなんとなく、どのタイプに属するかという「振り分け」だけが進行しているのだけれども、実はその先、「教育型」の大学をこんなにたくさん、社会的コストをかけて存在させる必要なんてないんじゃない?という声が高まってくるような気がする。その先僕たちは、大学教員ではなく、地域での無料の学びを助ける「メンター」として、安く再雇用されるのかもしれない。「メンター」にはきっと、そこそこ高いインターネットリテラシーが求められるので、たぶんその仕事は、僕にもまわってくるような気はするが、それしか生き残り方法はないと考えると、暗澹たる気持ちにならざるをえない。
大学破綻を回避するために
仕事に追われていて気づかなかったのだけれど,年末から年始にかけて,「大学破綻」を