荻上チキ氏インタビューから少し考えてみた


「ウェブ炎上」の荻上チキさんに対する、ソフトバンクビジネス+ITのインタビュー、なかなか面白い。荻上さんは81年生まれだそうだ。

リンク: コラム≫Web2.0-【荻上チキ氏インタビュー】ネットにおける「炎上」や「デマ」の構造を考える―『ウェブ炎上』の著者の視点:ソフトバンク ビジネス+IT.

81年生まれの世代に、僕はかつて教員として接していた。誰の世代かはすぐにトレースできる。また、荻上さんの年齢のときに自分が何をしていたのかも思い
出せる。等しく与えられた時間を使って、10年間僕は何をしていたのかという気持ちになってしまうのだが、幸いまだ僕は生きているし、幸いいつからでも走
り出せる立場にいる。

荻上さんは、TBSラジオのLifeポッドキャスティングでも、最新の回にゲスト出演していて、鈴木謙介さんらレギュラーパーソナリティと、ネット
社会についてのトークを繰り広げている。内容はポッドキャスティングでも聞けるが、文字でもまとめれている。

ネットに書いたフローの文章は、曲解される宿命を帯びながら、転々と流通していくものだというの意見で出演者たち
は一致していた。それをどう受け止めて生きていくのかという点で、たぶん世代間のギャップがあり、上の世代にいるほど、抵抗感が強いのだと思う。

共感する部分が多かったので、まとまらない読後感を自分なりにメモ。


く、マスメディア対インターネットメディアと対比されますが、これはやや間違いだと思います。インターネットと過去のメディアを比較するのであれば、むし
ろ「口コミ」と比べる必要がある。口コミにおいて、隣の人にちょっといい格好をしようとする為に誇張、虚飾、ウソ、省略、脚色って日常茶飯事で我々が行っ
てきたことです。それが、インターネットによって目に見えてしまうことによって、あたかも急に「そういう社会」になってしまったかのように捉えられてしま
う傾向があって、それは違うと思ったのですね。もともとデマだらけなんです(笑)。それが、ネットの性質によって見え方や広がり方が変わった部分があると
いうことです。

選挙のときに出回る怪文書は信用に値しないが、新聞に書いてあることは信用できる、というようなある種の格付けが、過去のメディアについてはすでに終わっている(終わっていた)のに対し、Googleの検索結果は、表面上あらゆるページを平等に扱っているし、自ら格付けできる能力を持っている人は少ない。だからカオスに見えてしまうということなのだろう。でも、格付けのやり直しができるようになったからこそ、荻上さんのような才能が、次々発掘されてきているとも言える。石ころの中から、確実に玉は発掘されてきているのだ。

 中学生くらいの子たちはケータイというのを非常にパーソナルなコミュニケーションツールだと思っていて、そのプロフのURLを友人に送りさえしなけれ
ば、そのURLは第三者に知られないだろうと思っちゃっている子がかなりいるんですね。でも、そんなことはないわけです。パソコンから検索したって、無防
備なプロフがガンガン見つかりますから。そして大人たちが接近してきたり、あわてたりする。

以前も書いたが、大学生ですら、(おそらく)携帯から、他者に公開されていることを理解していないような文章を、書いているケースがあり、おどろくことが多い。マスメディアの存在感が低下していて、視聴者のつながりの感覚が昔の希薄な状態が解消されていないのに対して、「パーソナルなコミュニケーション」の世界はどんどん拡大し、マスメディアと並列の位置に立ち始めている。若い子にとっては、つながりメディア自体が、自分たちの世界観を規定しはじめている。よくそんなことが言われる。検証不可能なので一応留保するけれども、なんとなく同意できる仮説ではある。

学校の事なかれ主義は、子供たちをウェブユーザにしないことで問題を先送りにしたつもりでいる。でも子供たちはみんな家庭や携帯でつながってしまっていて、しかもその多くが携帯からの接続なので、公私の区別がつかなくなりがちなのだろう(これも推測だが)。

一方ウェブの世界には、努力の結果を評価する仕組みというのが、少なくとも今までの偏差値格差とは別の形でビルトインされているのだが、そこを泳いでいくタフなユーザを育てるという発想が、今の社会にはほとんどない。ゾーニングによって、子どもを隔離すればそれで事足りたという発想だ。結果としてネット社会における適応力は、読解力という、きわめて学校教育の世界に適合的な能力に、比例することになる。偏差値の高い学校にいる大学生は、その高い読解力を生かして、のちにネットユーザとしての基本的能力を獲得することができるし、そうじゃない大学生は、低い読解力が災いし、いつまでたってもネットユーザとして一人前になることができない。ネットユーザとしてのタフネスと、基本的な読解力や表現力との相関性を否定するわけではないのだが、それがすべてではないし、ネットユーザとしてのタフネスの必要性を自覚させることが、読解力・表現力の向上にも必ず資するはずだ。

結局子供たちの情報社会への適応性を高めるためには、情報教育だけでなく、すべての教科で、ある種の組み換えが必要になる。で、そのためには、教員の側に適応性がなければならないということなので、世代交代を待つしかないということなのかもしれない。

僕ら兄弟はみな、転向先での人間関係で苦労した。おおむね町村部の学校の通っていた時期に、みんな陰湿ないじめを受けた経験があるようだ。僕は比較的うまく乗り切っていたほうなのだと思うが、それでも、転校生もあまりいないような町村部の小さな学校で、メンバーの固定されたコミュニティに参入していくのは、大変なことだったし、何より都市部にあるような、複数のコミュニティに所属する感じがまったくなかったので、逃げ場がないという感覚は強かったように思う。

早稲田大学には大量のサークルというコミュニティがあり、人間関係の「複線化」は容易だった。とはいえそれなりに参入障壁はあり、だいたい新学期に、「コース選択」の機会は限定されていた。
インターネットユーザとなってすぐ、この複線化はさらに広い範囲で、しかも低い参入障壁で行えることがわかった。それから10数年が経ち、この低い参入障壁の危うさが強調されるようになっているが、会ったこともないような属性の人に会う可能性というのは、昔も今も変わらないし、大学時代に妙なサークルの説明会に行ってぐったりする感覚とも通じている。今も昔もこの点の本質はそんなに変わっていない。

それよりも重要なのは、今の子供たちには、逃げ場が与えられているということだ。ネットを使ってさらに陰湿な淵に沈むこともできるが、別の世界とリンクすることにより、複線化ができるということもできる。もちろん別の世界にはさまざまな危険があるのだが、知らないおじさんについていかないように監視する責任は、親にあるわけだし、最近の親があてにならないというならば、学校が知らないおじさんに会わないよう配慮する必要があるのだろう。だけれども、最大公約数のリアルな教室からはみ出してしまう子供たちにも、複線化や逃げ場を用意できるというメリットは、もう少し自覚したほうがいいように思う。

「お父さんは長くIT業界にいるからたいていの問題はわかる。もしネットでなにか困ったことに遭遇したら、なんでも相談しろよ。」

10月、越後湯沢で行われたセキュリティワークショップできいた言葉。某社の方が普段子どもに上のように言っているんだそうだ。きっと親に知られたくないものを見ていると思いつつ、子どもにはそれだけを伝えているという。それが効果的に機能しているか、検証する術はないけれども、少なくとも子どもにこのようにいえるためには、親にもそれなりのネットユーザとしてのタフネスが要求されるということになりそうだ。

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