悲しみの共有


新潟で一泊し、今日は東京へ移動。徐々にこのスタイルに体を慣らしていきたいが、荷物を減らせない性分は何とかならないものか。いま新幹線に乗り込んだが、すでに汗だくだ。

スタディツアーの間はいろいろと忙しく、フィードがたまりまくっていて気がつかなかったが、上の妹が埋葬のときの感想をこんな風に書いていた。

悲しみについて話し合うことは、安らぎや慰めを与えてくれる。だが、根を同じくする苦痛であっても、苦痛の引き金となる要素や、引き金が引かれるタイミン
グは人によって違う。外的な出来事としては同じでも、それぞれの人の内的な意味づけは異っているからだ。どんなに苦しんでいるだろう、と互いに慮る事は出
来ても、相手の苦痛を完全に理解することは出来ない。相手の苦痛の内部に入っていくことも、自分の苦痛の中に相手を招き入れることも、決して出来ない。
襲ってくる悲しみと対応する時、誰もが絶対的な孤独の中にいるのだ。

兄の死以来、多くの人のお心遣いに力を頂く一方で、実に愛らしい優しい無神経に切りつけられる体験も何度かあったが、そのようにして善意の言葉が他人の痛
みを増幅させてしまう一因も、この悲しみの個別性・絶対性への理解のなさなのかも知れない(実際のところ、どんなお悔やみやアドバイスよりも「何も言って
あげられないし、してあげられない。ごめんね」という悲しい言葉の方がずっと心にしみる真実な慰めであったとは、自分で経験して初めて深く知ったことだっ
た)。

兄の死から4ヶ月、同じく喪の月日を過ごしながら、私達家族のたどってきた心の道筋は、結局はおのおの別個のものであったと思う。私達は「naoyaiの
死そのものの悲しみ」と、「同じ出来事を悲しみながら、別々の悲しみの中に閉じこめられている」という現実とによって、二重に引き裂かれている。でも、そ
のことで更なる悲しみに落ちていくだけでは、あまりにも単純すぎるし芸がない。一人きりの痛みに浮いたり沈んだりしつつも、私と家族を結びつけている何か
を感じ、少し嬉しくもなっている。その何かというのはごく簡単に言ってしまうと「家族愛」とかいうものかも知れないが、亡兄同様私も格好つけなので、そん
な陳腐な言葉は使いたくない。だからもっと良い言葉を探しながら、今回経験した全てのことを、もう一度ゆっくり反芻したいと思う。

僕は一足先に新潟に戻ってしまったので、彼女がこのように考えるにいたった原因を、僕は把握していないかもしれない。つまりひょっとすると、僕が帰ったあと、何か家族の間で、新しいやり取りがあったのかもしれない。ただいずれにしても、「悲しみの共有」が不可能なのだということには、たしかに同意せざるをえない。

病気の各段階で、弟は何を思っていたのか、思うことができたのか。ずっとそのことを考えているけれども、それもまた、彼の心の中の出来事なのである。本質的には、知りえない、共有し得ないものであるという点では、生者と死者の間にあるものも、生者相互の間にあるものも、実はそんなに変わりはないのかもしれない。

それでもなお、僕が両親に寄り添えるものがあるとすれば、弟が生まれた頃から上の妹が生まれる頃までの、両親の思い、ということになるかもしれない。75年に弟が生まれた直後、父と僕が創作歌を歌ってあやしている様子を録音したカセットテープがある。その中には少しだけ、祖母の声が含まれていて、祖母の死後、祖父がその声を聞いて涙したという、非常に貴重なテープだ。このテープは僕が主役で、当時から、即興歌手としての才能をいかんなく発揮しており、今までは僕が幼少期に何かの拍子に失ってしまった、歌唱力とクリエィティビティだけが注目されていた。だが、これからはむしろ、今の僕よりも若かった両親が、二人目の子どもが生まれて、「家族」を持つに至った幸せの絶頂期を、記録したものといえる。二人目の子どもを持った喜びを、当時の僕はどれぐらい感じていたのか。よくわからないけれども、その雰囲気の中にいた人間は、家族の中では、もう僕しかいない。そしてその雰囲気こそが、現在の、あまりにも深すぎる悲しみとリンクする、象徴的な出来事なのだ。同様に、上の妹が生まれる頃のこともまた、ともにそのときを過ごした弟がいなくなった今、両親に寄り添えるのは、僕しかいないということになる。

ともあれ、それらもまた、寄り添える「可能性」を述べているに過ぎず、「共有」などできるはずもない。

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