遅ればせながら、ICPFセミナーについての、IT Mediaの記事を読んだ。
リンク: 「100年後も作品を本で残すために」――三田誠広氏の著作権保護期間延長論 – ITmedia News.
「パブリックドメインになれば、出版元がもうからない」という発言があったとして、「意味不明」などとするコメントがはてブにずいぶん出ているようだ。ちょっと補足してみる。
まず紙として出版されること、出版文化を維持・発展していくことそれが三田氏の大前提だ。三田氏が、誰かの利権を背負って発言しているのか、純粋にそう思っているだけなのか、その両方なのか、僕には判断つかなかった。が、単純に自己の信条でしゃべっているのかもしれない(少なくとも本人はそのつもり)とは感じた。
いずれにしても、インターネットユーザの多数派(で、穏健派?)は、「出版文化の維持発展の意義は認めるが、『出版』文化の維持発展それ自体が最優先課題ではない」という立場ではないだろうか。僕はそうだ。インターネットでの情報流通やそれによる文化の発展を期するならば、権利制限の範囲をどう広げるべきかが最重要課題になるだろう。過激派の方は、少なくとも著作権を考える上では、枯れてしまった出版文化の維持発展を、もう考慮する必要がない、と考えるかもしれない。
だが三田氏の場合、1.出版、2.ウェブという優先順位がまずあって、その上で、出版物として世に出ないものを、ウェブで世に出すことの価値を認める。そういう順序になるわけだ。どのように工夫したって、無許諾での著作物のネット流通は、完全には止められないと僕は思うのだが、出版の形であれば大丈夫だと考えているふしもある。三田氏自身、流通してしまってもまあいいかと思えるものは、研究ノートとして、公開しているそうだ。でも出版物はまあいいかと思えないので、公開していない。なので、紙でだけ流通させて、守っているつもりのようだ。
たしかに紙の場合には複製に手間がかかるのだが、それでも需要があれば、誰かがネットにあげてしまうと、僕は思う(今、出版物に対して、それだけの手間に見合う需要がないだけだ)。
というわけで、死守すべき「生命線」は、出版という形態を維持し、それによって版元、作家、その遺族が十分な収入を得られるという形なのだ。
で、なぜ「パブリックドメインになれば、出版元がもうからない」のかというと、パブリックドメインになれば他社からも同じ作品が出版されるからだ。少ないパイを複数社で奪い合い、100円ショップでも同じ中身のものが売られるようになるので、そうなることが目に見えているならば、出版社は、最初に作品を世に出すというリスクをとらなくなるだろう。そして出版文化は徐々に死んでいく。最優先で守るべき、文化の象徴たる、出版という形態を、日本で根絶やしにしていいのか。
僕なりに要約すると、こういうことになる。
忘れ去られかけた作品が、保護期間の終了とともに青空文庫に掲載され、人々の関心を呼び戻す。その意義を三田氏は否定しないし、その活動に三田氏自身参画しているわけだが、そのような流通形態はあくまで二次的・補完的なものである。ネット上で流れているものは、「情報」であって、「文化」ではないと言っていた。
パブリックドメインになった作品を、さまざまな出版社が解説などに工夫を凝らして出版し、競争すれば、かえって文化は発展するといえないか?という趣旨の質問が出たが、それに対する答えは、いまひとつ歯切れが悪かった。たぶん、パブリックドメインから、プラスのエネルギーが生まれるとは考えていないのだろうと思う。「保護期間が切れた途端に、心ない人によって思いもよらない形で作品が利用される」例として、萩原朔太郎の遺族が、「先祖の作品がせんべいの紙に印刷されて嘆いていた」というエピソードを披露していた。そのような副作用のほうを懸念しているのだろう。
「文化」という言葉を使って、普通の商品の競争とは異なる論理を持ち込み、版元の先行者利益をどんどん拡張していこうというのが、三田氏の主張が意味するところだ。著作権の話で出てくるインセンティブ論というのは、僕の理解では、先行して著作物を創作したりそれを世に出そうとした人たちに、どんな独占権を与えるかという問題で、他の商品の競争といったん横に並べてみて、独自の保護を与えるべき理由がどこにあるのかを考えてみようという考え方だと思う。著作者の先行者利益を、特別に長期間保護し、さらにそれを拡張しようという話は、他の商品と横に並べてみたときにも妥当なルールだろうか?
著作権は「文化」を守るためにあるという考慮をすると、結局「文化」ってなんだ?ってことになるのかもしれない。三田氏の情報/文化二元論にたって、「文化」を語るべきなのか?ちなみに無方式主義は、著作物のできばえにかかわりなく、著作権を発生させていて、そこが問題の核心であるのだが、一方「文化」の発展に資する著作物がどのようなものか、法はその価値判断をしないということになっている。
出版文化は著作権法により守るべき「文化」ではなくて、
「文芸」をこそ守るべきなんじゃないでしょうか?
はじめまして。
忘れ去られかけた作品が、保護期間の終了とともに青空文庫に掲載され、人々の関心を呼び戻す。その意義を三田氏は否定しないし、その活動に三田氏自身参画しているわけだが
とありますが、三田誠広さんは青空文庫の活動に参画していないはずです。なにかの勘違いではないでしょうか?
そうですか、「参画」ではないのかな。講演内容の記憶に基づいているので、勘違いかもしれません。
青空文庫の活動に賛同している、というような趣旨かな。
とにかく、青空文庫については、補完的・二次的な「情報」として、積極的に評価していると強調されていました。単に評価しているにとどまらず実際に云々、という発言があったと記憶しています。
実際に云々というのは、権利者データベースのことかと思われます。
http://kato-horagai.blogspot.com/2007/07/blog-post_25.html
青空文庫の活動に直接の関与はしていないはずです。念のため青空文庫に問い合わせてみます。
一戸様
青空文庫の方より直接メールが届いていると思いますが、三田誠広氏が青空文庫に参画しておられる事実はありません、とのことでした。
それでは失礼します。