ふつふつと思い出される存在、思い出す人


上越新幹線に乗って東京に向かっている。東京が近づいてくると、いつも当たり前に東京にいて、だからめったに連絡しなかった、亡弟のことが、またあらためて、ふつふつと思い出されてくる。彼はみなに先行して思い出される存在になったが、僕らも順番にひとしくみな「ふつふつと思い出される存在」となる。結果、長く生きた者がたくさんの「ふつふつ」を抱えて生き続けるが、しかしその長く生きた者もやがて亡くなって、それとともに「ふつふつと思い出される存在」であった人たちも、思い出されない存在になっていく。   
JR東日本の社内誌トランヴェール7月号、巻頭エッセイで、1927年生まれの北杜夫が、若き日の軽井沢の思い出について書いている。夏の軽井沢では、遠藤周作宅でしばしばパーティが開かれ、文学者仲間、三田文学の青年や聖心女学院出の女性も多く集まって、「飲めや歌えやの大騒ぎをしたんだ」そうだ。でも「そういう作家たちも今ではすべて亡くなってしまった」という。「今ではすべて亡くなってしまった」というフレーズは、年配の人からよく聞くフレーズだ。たくさん抱えこんだ「ふつふつ」を吐き出したい気持ちが、そこに現れているんだなあと、あらためて思った。

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