実名/匿名論と死者の足あと


「世界のブログのなかで日本語がダントツ1位! その理由は?」という記事がR25に掲載された。

リンク: 日本語ブログ – R25.jp.

僕も先週新潟青陵高校で、この話題をとりあげた。ちょっと古いネタだけど高校生はあんまり知らないことだろうと思って、僕はとりあげたのだけど、R25編集部も、R25の読者層はこの話題を知らないと思ってとりあげたってことなんだろうなあ。

以下は、SHOOTI編集部の古川健介さんの分析。

「海外のブログが、ニュースを自分なりに読み解く
ジャーナリスティックなものが主流なのに対し、日本は完全に日記文化になっています。およそ8割以上のブログが日記だと思いますね。日本人の、日記やメモ
をしたためる文化とブログがマッチしたんでしょう。そして投稿数が多い理由ですが、携帯電話との連動により、劇的に敷居が低くなりました。モブログという
のですが、若い世代が携帯電話を使い、毎日大量に投稿しています」(古川さん)

実際には「海外/日本」の分類は相対的で、英語で書かれているけど私的な中身が中心のものもあるし、日本語で書かれているけどジャーナリスティックなものが主流なものもあるだろう。学生たちの様子を見ていると、個人的なこと、(WAKHOK高谷先生が書いていた)仲間うちの「楽屋オチ」を書きたいという気持ち、書く能力がある学生だけが、ブログを続けていっているように思う(それすら書く気力がない学生も、実際には多い)。読み書きができるのに、ジャーナリスティックな視点を持たない人の割合が、日本人の場合には高いのかもしれないし、ブログはそうした人々を歓迎している(mixi日記はもっと歓迎している)。

「モチベーションの違いはともかく、日本では海外と違ってゆるい発信がなされています。よく『日本人の場合は情報発信ではなく、放電だ』なんていわれています。また匿名性が高いのも特徴。自分の素性を明らかにして書く人は少ないですね」(同)

“目立ちたくはないけど、誰かに知ってほしい”。そんな日本人のプチ自己顕示欲的な気質もブログに合っているのかも。

「放電」以上の欲求はないのだと思う。弁護士の小倉秀夫先生は、以前から「初心者こそ実名ブログを書くべき」という持論を展開されているが、ブログ界ではあまり支持されていないようだ。小倉先生を批判する理由はいろいろでてくるのだけど、その中の一つに、それは狼の群れの中に羊を放つようなものだ、というのがある。「放電」以上の欲求を持たない者はえてして、自己を守るための術を持たず、情報の扉の開閉をコントロールもできないし、「空気を読む」こともできない。その結果、実名と紐づいた「汚名」を残してしまいかねない。そういうことのようだ。しかも、そのようなリスクをとってまで、実名で発言し、現実社会で何らかのメリットを得られる人はどれだけいるというのか。小倉先生のように、個人名義で仕事をしている人は別として、それ以外のほとんどの人には、何もメリットなんてないじゃないか。批判の方向性を大雑把にまとめるとこうなる。

結局、それぞれ自分なりにリスクを判断して決めればいいんじゃないの?という方向で、僕の結論は固まりつつある。僕自身は地方暮らしが長いので、ある種の緊張感を持って仕事をし続けるために、実名でこのブログを書いている。推敲してない文章を垂れ流していているので、実はあんまり緊張感を保てていないのだけど。

一方、5月の弟の死をきっかけに、僕は別の視点でこの問題を考え始めている。

僕の弟はネット上で当初(たぶん90年代)、naoyaiを名乗り、ここ数年n#を名乗り、「一戸直哉」という実名を、ほとんどネット上に残していない。彼はこのハンドルネームのどちらかで、ブログやらFlickrやら、いろいろなところに痕跡を残して死んでいった。彼の死は急なことであったので、死に向かっていく緊張感を漂わせている痕跡は、ほとんどない。

僕は彼が死んでまもなく、彼のことを「一戸直哉」という実名で、しかも痕跡へのリンクとともに書きはじめた。結果、彼の痕跡を、実名からたどっていけるようにした。たぶんそれをしなければ、しばらく連絡を取っていなかった彼の仲間たちが、彼の死を知り、彼の痕跡をたどることができなくなるのではないかと思ったからだ。

古いアルバムの中に故人の足跡を見出すとか、引き出しの奥にしまってあった日記から故人の考えていたことを知るとか、今でも高齢の人がなくなると、そういうことがしばしば起こっている。しかし僕らの世代はもう、そういう痕跡の多くを、ネット上に保存していることのほうが、多くなっていきそうだ。もちろん自分の死を予期して、データをローカルに保存しておくなんていう、用意のいい人もいると思う。が、弟のように、突然死がやってくれば、そんな準備をすることなく、オンライン上にデータをちりばめたまま、人は死んでいくことになる。

自分の死後も、自分自身とそのデータを紐づけないでいて欲しい場合もあるだろう。だけど、そうじゃなくて、実名表示で公開するメリットもあんまりないから匿名にしているという、「消極的匿名」の場合には、死んでしまうんだったらむしろ「自分の足あと」として残したいという場合も、実は結構あるんじゃないかと思う。僕の弟の場合には、そういうケースだったんじゃないかと(勝手に)思っていて、だから生きている関係者のデメリットにならないと思われる範囲で、彼がオンライン上に残した足跡を、紐づけることにした。

僕自身も、学界にはあまり業績という足あとを残していないけれども、ネット上には中途半端な足あとをたくさん残している。中にはすでに消えてしまったものやWayback Machineでたどるしかないようなものもあるのだけど、ここから先は可能な限り、死んだあとでもたどれるような形で、足あとを残していこうと思う。そしてまた、できれば、他人様にたどっていただく価値のあるような、足あとにしたいと思う。

2 件のコメント

  • 直哉の友人です。
    彼の突然の死に際し、彼と会っていなかったこの数年間を埋めようと、ネットをさまよっていました。
    お兄さんの思いのおかげで、また直哉に会えそうです。
    ありがとうございます。

  • のぢまさん、コメントありがとうございます。このエントリーに対しては賛否がわかれましたが、直哉の意思に反してないだろうという僕の判断は、一般論はどうあれ、結局間違ってなかったと思っています。
    彼の時間はもう止まってしまいましたし、ウェブでの彼の動きもこれ以上動きようはありませんが、少しでも長く皆さんの記憶の中に、彼が行き続けられるよう、記録をネット上に保存しておいたやりたいと思っています。

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