殯の森


映画「殯(もがり)の森」を見るために、めずらしく2時間テレビの前に座ったのだが、途中、これまためずらしく家の電話が鳴ったりして、後半集中力が低下した。

『殯(もがり)の森』は、奈良を舞台に認知症の老人と事故で子供を失った介護福祉士の女性が、道に迷って森をさまよう中で再生の希望を見いだしていく物語。深い森の美しい情景とともに、2人の心の交流や感情の変化を描いている。

映画のあらすじは、短くこんな風にまとめられている。最後のほうの集中力の低下で、感情移入できなかったのだが、考えさせられる内容であった。日本人と違う死生観を持っているであろう、カンヌにいた評論家たちが泣いたというのは、意外といえば意外であるが、やはり死というものに対する視線は、万国共通のものがあるのだろう。

 

認知症の主人公は、33年前に死別した妻への思いを抱き続けている。その感情は恐らく、認知症になる前より、よりはっきりと、態度に現われている。そして妻と交流するために、山の中の妻の墓を訪ね、その後彼がとる態度は、客観的に見れば、肉とか骨とか現世とか、そういうものにとらわれたものの見方なのだけれども、しかし、それ以外に「接点らしきもの」がない以上、そうするしかないのだということもよくわかる。この辺が、万国共通なのかなあと思ったところだ。

もちろん、今から33年後に、僕ら家族がそれぞれどうなっていて、今の弟への思いがどうなっているのか、という気持ちも生まれた。その頃には兄妹の心は、それなりに穏やかなものになっているような気がするが、彼の奥さんはどうだろうか。両親がその頃まだ健在だったらどうだろうか。若くして人が死ぬと、残された人々が、記憶の中にその人のことをとどめて生き続けるという辛さを、引き受けなければならない。

大学で教えていると、この学生は他の学生と同じような理解力を持っていないかもしれない、と思うことがしばしばある。しかし、それが脳その他の病気に起因するものなのかどうかは、一見して判断はつかない。他の学生たちが、このような問題を抱えた学生から、距離を置いている様子も、十分に見てとれる。
でもみんなもちろん、何らかの意思を持っているのであり、等しく社会に参画する権利は保証されるべきである。ただ参画するために必要な高次脳機能が、何らかの形で失われていることは、十分にありうるのだ。認知症の人たちもそう。判断力や理解力を完全に欠いているわけではないのだが、一部の機能が損なわれているのであろう。

今までは、こうした障害を抱えた人々を社会は隅に追いやってきたのだが、そうじゃない、ちゃんと機能を回復できる可能性はあるし、ちゃんとした意思や感情を持った人たちなんだというのが、介護経験を経た監督のメッセージでもあるようだ。そしてそれは、僕自身は今まで気づいていなかったけれど、多くの人々がすでに自覚していることなのだろう。しかし、高次脳機能が失われた人に、社会や組織や企業の行く末を左右するような重大な決断を任せるのではないとして、じゃあどんな社会参画のありようを保証しようというのか、という非常にデリケートな問題について、答えは出ていない。

4 件のコメント

  • 『殯の森』この映画を見て!

    第160回『殯の森』  今回紹介する作品は今年度カンヌ映画祭で邦画としては10年ぶりにグランプリ(審査員特別大賞)を受賞して話題になった『殯の森』を紹介します。この作品はまだ劇場公開されていないにも関わらず、NHKハイビジョンで先行してテレビ放映されました。私もテレビで見たのですが、劇場公開よりテレビで先に放映するなん…

  • 殯の森  (2007)

    生きてゆくこと 死にゆくこと 
    その結び目の刻をたゆたう、森と人間の一大抒情詩
    第60回カンヌ国際映画祭グランプリ受賞作
    互いに家族を亡くしている認知症の老人と女性介護士の触れ合いを通して、人間の生と死を静かな眼差…

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