InTheSpiral: ユダの福音書


弟のこと、しつこいですがときどき書きます。

(ところで、ログインできない故人のブログをインポートするのに、いいツールってないだろうか。バックアップをとっておきたいんだけど。)

ちょうど彼が死ぬ一年前、昨年の5月に、彼は、ユダの福音書に関するNational Geographicの記事を紹介している。

リンク: InTheSpiral: ユダの福音書.

大人になってから、僕ら兄弟姉妹は一様に、教会から距離を置くようになったが、そのときにキリスト教についてどのような認識を持ち、その後どのように対峙してきたか、あまり真面目に話し合ったことはなかった。最後の「気分」のところは、なんとなく僕の感覚に近いかもしれない。

 

ところで私自身はクリスチャンとして育ちましたが、文字通りdogmaticになってしまっているキリスト教のことをどうしても好きになれず、成人
してから教会に通っていません。私にとって居心地のよい場所としての教会や司祭はきっとありうるのでしょうけれど、でも今日の「西と東の衝突」のような情
勢の中ではキリスト者の一員に数えられるのを私はよしとすることができない気がします。

 

平気で侵略行為をして自国の大勢の若者の命を犠牲にしておきながら、god bless
usなんて演説の最後に言うことができる、そんな人がリーダーをしている国がまかり通っている昨今は、「正統」なキリスト教が成立しローマ帝国の庇護をう
けるようになった時代と同じ構図を持っているんじゃないかと思います。時の権力がいいように利用し、自分たちが定義付けるところの「キリスト教の価値観」
こそまもるべきもので、それ以外は排除されてしかるべきという考え方を押し付ける。むろんそれがなかったらキリスト教というものは成立しなかったのでしょ
うが、21世紀の今日になってまで馬鹿みたいにそれに従う必要はないんじゃないでしょうか。

 

できることならこれをきっかけにもう一度キリスト教というものがどうやって成立したか、本当はキリストは何を語ろうとしていたのかを見直し、わかったことを素直に受け止めることができる世の中にならないものかなと思っています。

理性的に考えれば考えるほど、クリスチャンとしての自分の定義づけが、イマイチピンとこないからだ。ただまあ、日本の片田舎にある大学に対して、欧米の一流大学と同じ体裁を要求し、そうじゃないからといって「それは大学のやることじゃない」といわれても、片田舎の大学が困ってしまうように、日本のキリスト教には日本のキリスト教なりの課題というのがあるのであって、それが多少本家と異なっていても仕方が無いのかもしれない。

「時の権力がいいように利用し、自分たちが定義付けるところの「キリスト教の価値観」
こそまもるべきもので、それ以外は排除されてしかるべきという考え方を押し付ける」という姿勢と、超リベラルな日本のキリスト教徒の考え方もまた、なんともいえないねじれを感じさせるものがあるのだが、それはそれで、違ってていいのだろう。

外国と接して生きていきながら、こうしたねじれをちゃんと受け止めて、なおかつクリスチャンとしての信仰にも確信を持ち続けるためには、よほど強い信念をもって、かつちゃんと勉強しなければならないのだろう。で、勉強すれば勉強するほど、足元にある日本の教会からは足が遠のくのかもしれない(この点はちゃんと勉強していないので、確信がない)。

僕は足が遠のいていた教会で、かつて歌っていた聖歌を歌い、祈り、弟を来世に送り出した。そこで「来世」を都合よく想定してしまうような人々のマインドこそが、教会やその他宗教を支えている要因だ。そしてその「ご都合主義」は、キリスト教のローカライズの契機となり(つまり普通の人にもわかりやすい宗教的メッセージに変換されていき)、ちゃんと勉強した人が、さらに足が遠のいてしまうような状態をもたらしているような気がする。

なんとなくそんな感じじゃないかなあと思って、僕の場合は教会から足が遠のいた。同じように足が遠のいたけれども、足が遠のいてしまうような「ひっかかり」について、弟はずっとぐるぐる考え続けていたのかもしれない。

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