消費される訃報


最近テレビを見なくなってしまったので、正確に記憶していないが、たしかテレ朝の報道ステーションで、2ヶ月に1回ぐらい、最近亡くなった人のことを映像でまとめたものが流されているように記憶している。あれを見ながら以前から思っていたのだけど、結構な有名人の訃報でも、2ヶ月に1回のまとめでは、ずいぶん前のことのように感じられることが少なくなかった。結局、今の時代の「時間の流れ」とは切り離して、長いスパンで悲しみを背負い続けるのは家族ないしそれに準ずる立場にある人だけで、ニュースに出てくるような有名人の死も、短期間で消費されてしまう。

昨日慶応病院で亡くなったお二人は、それぞれ多くの人々にとって大きな衝撃であった。でも同じように衝撃を与えた前長崎市長の死について、人々の記憶はそ
ろそろ風化してきているようにも感じる。ZARDの「負けないで」がさっきiTunes Music
Storeの上位に出ていた。しばらくこの現象は続くかもしれない。若くして亡くなった人のヒット曲は、同時代を生きた人が年をとるまで聞きつづける
ので、とりわけ長く人々の記憶に留まるのだろう。が、人の死を知らせるニュースは、人々にひとときの衝撃を与えて、すぐに波が引くように
忘れ去られていくものがほとんどだ。

そうやって切り替えながら生きていくのが、今の社会なのだろう。けれども家族の死については、できるかぎりその記憶を風化させないで持ち続け、しかし塞ぎこむことなく、前向きにこれからも生きていけたらいいなあと思う。

「殯(もがり)の森」、明日NHKで放映されるようだが、あらすじを読んで、興味がわいた。たぶん見ることになるだろう。

Twitter

Facebook

AppBank Store

カテゴリー

2007年5月
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031  

Instagram

Instagram