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旧海軍大湊通信隊稚内分遺隊幕別送信所庁舎、雪の重みで壊れる

稚内の旧海軍施設と言えば、宗谷岬の旧海軍望楼。宗谷岬の観光コースにも入っているので、望楼は何度も見たことがあったが、今日ニュースに出てきた、幕別送信所は知らなかった。おそらく恵北の奥の方に人知れず残っているのだろう。

“開戦暗号電報”施設 雪で壊れる NHKニュース

太平洋戦争開戦の際、「ニイタカヤマノボレ」の暗号電報を送った北海道稚内市にある旧日本軍の通信施設として使われた建物が、雪の重みで壊れているのが見つかりました。

壊れていたのは、北海道稚内市の郊外にある旧日本海軍の「幕別送信所」として使われた建物です。
建物の保存に取り組んでいる地元の市民グループが、17日、現地を訪れた際に壊れているのを確認しました。
この建物は、昭和6年に開設されたかつて旧日本軍の送信所で、太平洋戦争開戦の際、「ニイタカヤマノボレ」の暗号電報を送る際に使われました。
建物はれんが造りですでに老朽化していましたが、雪の重みで屋根の大部分が落ち、壁に長さ10メートルほどの亀裂が入りました。

おそらく整備はされていなかった(市民グループが定期的に見回っていた?)だろうし、これから修理するのかどうか、市としても判断に迷うところかもしれない。

 

【稚内】待合室の、片隅で。:市民がつくるTVF(東京ビデオフェスティバル)2012「筑紫哲也賞」

ちょっと前の情報になるがご紹介。
NPO法人ムーブユーが制作した、映像作品「待合室の、片隅で。」が、市民がつくるTVF(東京ビデオフェスティバル)2012で、「筑紫哲也賞」を受賞した。ムーブユーは、前任校稚内北星学園大学の、映像制作の授業からスタートしたNPO法人(一戸も発足以来監事をつとめている)。地元紙で紹介されるなど、地元ではちょっとした話題になっているようだ。

この作品は、稚内駅の建て替えにより閉店することになった立ち食いそば「宗谷」が題材。最北の駅のそばやさんで働く3人の女性とそこを訪れる人々とのふれあいを描いている。大手メディアがなかなか拾ってくれない、最北の街の日常を、ドキュメンタリーとして仕上げる活動は、ムーブユーの存在意義の中核部分であり、この部分での活動がきちんと評価され続けているというのは、大変素晴らしい。

なおこの作品は、「地方の時代」映像祭でも入選している。
ムーブログ: 【受賞】市民がつくるTVF(東京ビデオフェスティバル)2012「筑紫哲也賞」受賞!

ムーブログ: 【受賞】地方の時代映像祭2011入選しました。

筑紫哲也賞! – Life3.0 ~ 短大教員の雑想

暴風雪で稚内が「陸の孤島」に

今日の昼間、元同僚の安藤先生から以下のTweetが流れてきて、驚いた。

え、そんなことあるのか、と思ったが、やはりレアな出来事のよう。90年代、まだ稚内北星短大だった時代に、似たようなことがあったようだが、僕がいた時代にはそこまでのことはなかった。

さいほくネットに、荒れ狂う暴風雪の様子が、動画で公開されている。

【ぷちコミ】今日の稚内は陸の孤島。 (さいほくネット)

稚内に通じる交通網はどこも通行止めになっていて、稚内市内の都市機能もマヒしたようだ。いろいろ検索してみると、コミュニティFMのFMわっぴーがかなり細かく情報を出していたことがうかがえる。市民や各機関のTweetでもさまざまな情報が共有されていたことが分かる。

さて完全に「陸の孤島」となった稚内。これだけの事態ならば、さぞ大きく報じられたかと思い(実際、本州でこんなことがあったら大騒ぎだ)、検索してみると、Google検索にはなにも引っ掛からない。北海道新聞のウェブを見てみると、大雪に関する記事が出ていた。

道内大荒れ 交通網寸断-北海道新聞[道内]

道内は低気圧が急速に発達しながら通過している影響で、15日朝から日本海側を中心に風雪が強まった。16日朝にかけて日本海側などで局地的な大雪、太平洋側やオホーツク海側では強風になるなど、全道的に荒天となる見通しで、札幌管区気象台は警戒を呼びかけている。

 

同気象台によると、15日正午までの12時間の降雪量は上川管内幌加内町で24センチ、同管内上川町層雲峡で21センチ、宗谷管内中頓別町で18センチ。旭川市は8センチ、札幌市は4センチだった。最大風速は襟裳岬で22・5メートルを観測した。

 

この影響でJRは午後1時現在、学園都市線の一部で運転を見合わせているほか、特急など19本が運休や部分運休し、約2千人に影響が出た。旭川市の東旭川駅構内では雪で線路のポイントが切り替わらなくなるトラブルがあった。

 

ハートランドフェリーは奥尻―江差、稚内―利尻・礼文の計12便、津軽海峡フェリーは函館―大間の2便が欠航。

 

というわけで、道内全域で大荒れであったこともあるのか、稚内のあらゆる機能が止まってしまったというニュースは、現時点では道新ですら報じていないようだ(ちなみに道新は稚内支局がある)。

そんな中コミュニティFMのFMわっぴーが活躍、わっぴーはおりしも、念願の出力アップを実現し、近々出力50Wになるそうだ。宗谷岬あたりまでカバーするにはたしかにこれぐらいの出力が必要になる。今回の暴風雪は、まさに大出力で市内全域をカバーする必要性を、タイミング良く示した形となった。

またTwitterも力を発揮した。一次情報は大手のメディアからはほとんど報じられなかったが、わっぴーが活躍し、それを補完する形でTwitterを通じて情報が共有された。日本のニュースで、大手メディアがカバーできないことなどないかのように思われがちだが、実は稚内に限らず、離島などでもカバーされていないニュースは多いはず。地域メディア+Twitterにより、この機能が補完され、コミュニティ内部はもちろんのこと、外側との情報共有も、可能になっているように思う。

稚内北星学園大学 最寄り駅

wakhok、「なかのひと」に登場

どこの組織の人が、自分のページを見ているかがわかる「なかのひと」というサービス。このブログにもずいぶん前から設置している。昨日、このサービスでログを見ていたところ、僕の前任校である「稚内北星学園大学」が表示されていた。

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稚内北星学園大学 最寄り駅

以前より、稚内北星学園大学から見に来てくださる方はいたはずなので、おそらく回線の切り替えなどで、IPアドレスから大学名が割り出せるようになったのであろう。

ちなみに、現時点でのなかのひとでの「メジャー度」は、「激レア」。敬和学園大学と同じだ。激レアといわれて、あまり気分の良いものではないが、おそらくトラフィックの総量で見ているのであろう。敬和が「激レア」を脱するには時間がかかりそうだが、wakhokはネットユーザが多いので、ほどなくランクアップ(?)することだろう。

上のキャプチャをみて、ネタフルのコグレさんから、かつてwakhokのサマースクールに参加していたことを教えていただいた。

やりとりを総合すると、コグレさんが参加されたのは1996年のようだ。

たぶん担当は、植田龍男先生だろう。

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ハートランドフェリーの「アインス宗谷」がデザイン一新

稚内を拠点に、利尻礼文航路とサハリンへの航路を運行する、ハートランドフェリー(ほかに、奥尻島の航路もある)。
去年までは東日本海フェリーという名前だったが、社名も変わり、船体のデザインの変更を進めているようだ。今日Flickrで見かけたところでは、サハリンとの間を往復しているアインス宗谷も、以下のように変わっている。

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from wakkanai097

ハートランドフェリーのウェブによると、すでに他の船の塗り替えもすすんでいて、5月には新ターミナルができるようだ。これまでの裏寂れた稚内フェリーターミナルと比べると、かなり雰囲気の違うものになる。

 

1950年代の稚内のカラー写真(Originally uploaded by t-squared.)



Originally uploaded by t-squared.

Great photo of old scene in Wakkanai.
Midori Town really exists in Wakkanai, but I have never seen Midori Hosipital.

という風に、flickrからは日本語が通らない。この写真にある緑医院は、もし稚内のものだったとしても、恐らくもう存在しないものだろう。ここに写っている若い女性たちは、ひょっとしたらまだ稚内にいる人もいるかもしれない。

以前WAKHOKのウェブを編集しているときに、こういうのも見つけた。

-Wakkanai Air Station Website.

その頃を知らないので、懐かしいわけはないのだが、なぜか懐かしい。

卒業生凱旋講演

ネパールから無事帰国。
公式レポートを書いたので、こちらに非公式レポートの残りを。
27日:朝目覚めると、2人のGタムが隣のエクストラベッド(シングル)を分け合って寝ていて、ちょっとびっくり。ネパール人にとっては普通の光景だそうだ。
インターネットカフェ(といってもPC2台しかなかった)で、配布資料の印刷。その後学長とともにタメールのタイ料理「インヤン」で昼食。普通に辛くしてくれっていったのに、日本のタイ料理店よりも甘いソムタムが出てきてがっかり。帰り道、後日訪問するMICに行っていたGタムが、MIC訪問中の哲学の先生を連れてきていたので合流。彼はノマド哲学者なのだそうで、中国語で本を出していた。奥さんは北京での元教え子。恐らく一回り以上年下だろう。この先生は、セメスターごとに中国やネパールを渡り歩いているようだ。たくましい。
一部印刷忘れなどもあって焦ったが、なんとかプレゼン会場のハイアットへ。この会合はComputer Association of Nepal(ネパールコンピュータ協会、CAN)のミーティングで、今回は「Wakkanai University」との共催ということになっていた。文部次官など政府関係者も集まり、かなりものものしい雰囲気。学長はゲスト代表ということで、政府関係者や司会と並んで、会場前方の「来賓席」へ。Gタムの緊張感が高まる。
WAKHOKの発表は三番目。まず学長から短いスピーチ。関係者への感謝と、大学の紹介、訪問の目的を述べた上で、詳細をWAKHOK初のネパール人留学生Gタムに譲ると締めくくった。その間、プロジェクタの接続がうまくいかず、一戸は壇上でドタバタ。結局CANのPCを借りてのプレゼンになった。
Gタムのプレゼンは、WAKHOKのIT教育の特徴とそこで行った自分の研究をメインにして、最後に協力内容について提案するもの。資料を英語で作成した上で、「みんなネパール人だし、ネパール語でいいでしょ」といってネパール語で発表した。学部卒業生の発表が、こうしたミーティングでどれだけ評価されるのか、彼自身もかなり不安げであったが、実際にはかなりウケた。「この研究で学長賞を受賞した」という部分については、大きな拍手が会場で沸きあがった。質問も多数(でもネパール語)。
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レセプションでは、名刺交換の嵐。学長、僕、ゴータム、3人がそれぞれに、多数の関係者に取り囲まれた。Japan Moneyに対する期待もあるのだろう(Moneyの面で僕らに期待されても困るのだが)。だが、それとは別に、多くのCollegeから、今までアメリカ留学をメインにしてのだけど、ぜひ日本にもチャネルを広げたいという趣旨の発言があった。それだけ門戸が閉ざされているということだと思う。
「世界の中の日本」という章が、子供のころ社会の教科書にあった。「国際社会の中で席にある役割を」とか「アジアのリーダーとして」とか、耳障りのいい言葉を聞くことも多い。しかしそんな美辞麗句通りに、事は進んでいない。実際には、ビザ取得には高いハードルが課されていて、相当に高い日本語能力、べらぼうに高い預金残高が求められる。結局日本は、日本語で暮らせるごくごく少数の裕福な外国人しか、助けるつもりがないのだ。それは言い方をかえると、日本人の生活空間に日本語以外の言語が多数のさばることを望まないということであり、単純労働の市場を外国人が荒らすことを望まないということであり、貧しい人たちが入ってきて治安を乱すことを望まないということでもあるだろう。そういう痛みを分かち合う「リーダー」になりたくはないということだ。えばってにこにこしていたいのだ。
レセプション終了後、ホテルへ。Gタムはこの日も、親戚の家に向かった。ホテルに戻った後、一人でタメルを散歩。すでに街は暗くなっていて、首都カトマンズは、弘前か稚内かというほど。ぐるっとまわってきてホテルに戻ると、敷地内のカジノだけにこうこうとネオンが輝いていて、中を覗くとギャンブラーたちの血の気が、フロアに充満していた。
(つづく)