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中森明夫講演会と大学祭終了

大学祭が終了した。
今回は模擬店、企画ともに多数あり、全体としては大いにもりあがったといえるだろう。
自分の担当しているゼミでも、恒例のベルギーワッフルのほか、エッグタルトもメニューに加わり、過去最高の売り上げとなった。学生たちの協力関係も比較的うまくいった。
個人的には、中森明夫さんと「女性自身」編集部の田邉さんの講演会に力を注いだ。もともと通常の講義期間中に設定しようと思ったが、市民も集めようとして学園祭にぶつけた。結果的に見ればその作戦は失敗だった。学生はみな模擬店やその他企画にはりついていて、思うように集まらず、市民も意外と中森さんを知らなかったため、集客に苦労した。北海道新聞と地元紙もそれぞれ紙面でとりあげてくれたのだが、なにせ前日北海道開発局主催の大きなシンポジウムが、学園祭と連動して同じ場所で開催されたというのが大きかった。もちろん趣旨はぜんぜん違う企画なのだが、なにせ開発局は建設業界に絶大な力を持っており、前日のシンポには、建設業界の関係者、市長を初め稚内市の関係者などがやってきて大賑わいとなった。ただ「背広族」たちは、そこに「動員」されているだけなので、学園祭本体とのシナジー効果はまったく生まれることはなく、大学とおじさんたちとのギャップがかえって際立つ結果になったように思う。「背広族」が学園祭につきあわなければならない義理ももちろんないのだが、一方の学生も自分たちの企画で手一杯でシンポジウムにあまり参加しなかったし、もう少し両者が接点を持てるような仕掛けを作るべきだったなあと感じた。
中森さんと田邉さんのトークは、個人的には非常に面白かった。芸能エンタメ裏情報から雑誌メディアの将来まで、という幅広いテーマでお願いしたが、見事にバランスをとってくださった。「裏情報」は稚内の人には聞いたこともない遠くの世界の話だったと思うのだが、それでも食いつきはそんなに悪くなかったと思う。学内的に「あいつ下らんことを企画した」と思われないように配慮したのがよくなくて、むしろ自由に「裏情報」で突っ走ったほうが、結果的にはよかったかなという気もする。
一番大きかったのは、ゼミの学生たちへの影響であろう。これは良くも悪くも、ということになるだろうが、いずれにしてもメディア関係者との接点を持ち、付き合い方を覚えるというのはいいことだったと思う。そういう意味で、限定的ではあったが、中森講演会のほうが、学生たちとの接点が生まれてよかったと思う。当初は一戸が勝手に始めた企画であったことや、中森さんを今の世代はほとんど知らなかったこともあって、学生たちもあまり力を貸してくれなかったが、当日は表に裏に十二分に働いてくれた。
打ち上げは、模擬店打ち上げと講演会打ち上げを平行して行い、途中から講演会打ち上げに学生たちが合流するという形になった。学生たちは最初気後れしていたようなところもあったが、だんだん酔いもまわって、最後は三人の来客と交じり合っていろいろな話をしていた。酔っ払いすぎて何をしゃべったか覚えていない人も多いようだが。
マスコミ関係の人と飲んでいると、いつもその場のノリでとんでもない方向に話が発展していく。今回も、大学や稚内市の方向性について、常にポジティブにいろいろなアイディアが出続けた。たいていこの手の話は酒の場での盛り上がりで翌日消えてしまうような荒唐無稽なものなのだが、ごくまれに、荒唐無稽なはずなのに、そのまま現実化してしまうこともある。その辺のバランスを知っていると、適当に相槌を打ったり、話を広げたりしていくノリになるのだが、学生たちの反応はなかなか複雑だった。案外まじめに反感をもち「あんなのとんでもない」と言っているのもいたし、適当に話をあわせているのもいた。テーマが「おたく」「アニメ」のあり方みたいなところにあったこともあるかもしれない。
しかし本質はたぶん別のところにあると思う。マスメディアはノリで新しい流行を作り出す。それにさしたる根拠がないことは、当の関係者もよくわかっている。一方で、草の根から新しいムーブメントが生まれる、SNSのようなものも実際に存在している。マスメディアはそのときそのときノリで、虚像を作り出し、旬がすぎるとあっさり見捨ているのだから、草の根の活動がきちんと根付いていくことは大事なことである。しかし、稚内ではどうか。稚内の小さな取り組みや地道な草の根活動は、「いいことだね」と言われるに至っても、なかなか人々の生活に根付くことがないし、まして街の外の人間をひきつけるものに育っていかない。たとえばSNSは大都市圏では支持を得て、まだまだ人口比率から言ったらたいしたことはないけれども、人口を拡大再生産する仕組みができてきている。それはある程度の動きができた段階で、マスメディアが注目してきたらであろう。首都圏のメディアは多様であり、ノリがよく、新しい動きを察知して、勝手にどんどん話を大きくしていくのである。
しかし稚内では、地元メディアが少なく、中央メディアへのアクセス(発信のためのアクセス)もきわめて限定されている。だから地道にやっていることに陶酔・満足しがちなのだが、メディア対応がうまくいっていないからうまくいかないという面があることは、一応出発点として確認したほうがよい。GREE WAKHOKイベントがたいして話題を呼ばなかったのは、われわれのおかれた現状をあらわしているのだと思うが、もう少しやり方を考えれば話が広がっていく可能性がないわけではない。企画段階での「ノリ」を、もう少し大きな動きにしていくような何かが必要だったのだろう。
幸いにも、東京人は稚内に興味を持つ。それは地元から見れば偏見と思われるようなものもあるが、北海道イメージは最大限生かすべきであろう。今回のゲストの二人も、いろんなイメージを広げて東京に帰った。それらはここでちょっと盛り上がるだけで終わるものもある。しかし、やはりそういうところでうまく機会を捉えて、ノリを作り出していくようなセンスが、稚内人にも求められているし、学生たちもそうなっていってほしいと思う。
指導教員がノリがよすぎる・ノリがすぎるというのはよくわかったと思うのだが、それを反面教師にするよりは、いいとこどりでうまくやる学生たちとなっていってほしい。

稚内の観光と市民生活

Kentからトラックバックがあった。「父の版画展」の後半部分は、ためらいながら書いていたので、わかりにくかったかもしれない。
稚内についてこの話をあてはめると、実はなかなか悩ましい問題になる。
稚内は観光地であるが、「ぶらり散歩」には向かない街である。そもそも気候が「ぶらり散歩」に適していないので、街の人は「ぶらり散歩」をしない。なので、あまり「ぶらり」系の街並みができていない。また、街自体が宗谷湾沿いに横長に伸びていて、その中でも観光地はあまりアクセスのよくない山の上や端っこに位置している。稚内駅から宗谷岬までは30キロもある。しかも宗谷岬が長時間滞在に向いているようなインフラを持つわけでもないし、まして、市民に親しまれるような空間が用意されているわけでもない。
で、観光客に対してはどうしているか。観光バスに乗せて、点在する観光地をまわっている。これは年寄りには向いているかもしれないが、「ぶらり散歩」ならではの旅先での発見を促進する仕組みにはなっていない。だからさしたる「発見」がないので、「宗谷岬に行った。寒かった。」ということで、観光客は満足し、「リピーター」にはならない。夏のライダー層は、それなりに稚内にくるまでのプロセスでリピーターになる人もいるようだが。稚内の冬季観光促進策として、今年は「リピーター」登録というのをやっていて、夏に来た人が冬にまた来ると、数千円相当のおみやげをあげることにしたようだ。リピートしたいと思っていない人を、モノで釣るわけだが、しかしリピートして楽しめるインフラを整えないで、リピートさせたところで、あまり意味はないだろう。そういう意味で、この制度もちょっとおかしい。
話を戻そう。こういう状態がよくない状態であると仮定すると、何が必要か。
まず、交通網の整備。どこでもバスで気軽に行って気軽に戻ってこれるようにする。弘前には100円で中心街を回れる循環バスが走っているが、そういうことはできるだろうか?あるいは、ワンデーパスで乗り放題というのを作ったらどうか。おそらくリピートした人たちも楽しめるだろう。エコビレッジなんか楽しそうよ。大学も訪れてみようかしら。サロベツファームに行って、ソーセージ作りでもしてみようかな。
ということになるが、観光需要にこたえられても、バス会社はつぶれてしまうだろう。町の人はバスをあんまり使わないし、まして宗谷岬までバスでいく用事は、宗谷岬に住んでいる高校生でもない限り、そうそうない。町の人の需要と観光客の需要にはギャップがある。
じゃあ観光需要にこたえる商店街・繁華街はどうか。飲食店はいけそうだ。「いい店、うまい店」系は、多少地元民と観光客の間にギャップがあるとはいえ、そこそこ同じメニューで両方の需要にこたえることはできるだろう。では、海鮮市場はどうか。市場は稚内に限らず、釧路や小樽や函館にある観光市場の場合、あまり市民からの関心をひかないかもしれない。少なくとも見栄えのする施設を作っても、投資を回収するだけの利益を見込むのは難しいかもしれない。中央商店街を「ぶらり」旅向きの趣のある店ばかりの街並みにしたらどうだろう?たぶん街の人はそういう「趣」にあんまり関心がないので、おそらく商売にならない。
あと、抜本的に何か、という意味では「カジノ」はどうだろう、という以前からのひそかな持論があるのだが、それは今日のところはやめておこう。
東京から飛んでくる飛行機に乗って、観光客のしゃべっていることに耳を澄ましていると、いろいろなことがわかってくる。基本的に彼らは自分たちの先入観で稚内を消費しようとしていて、その需要にすべて答えようとすると、おそらく稚内の街そのものが崩壊するだろう。でも観光の街を作ろうとしているのであれば、それにある程度おつきあいすることも必要だ。今は「全部送迎つきだからいいだろう」ということで、郊外の、どこにも車なしではいけないようなホテルに泊まらせているケースをよく見るが、あれはむちゃくちゃである。
「おつきあい」のために血税が使われるのもある程度は仕方がない。問題は使い方や覚悟、構えの問題である。稚内の人にその「覚悟」は感じられない。覚悟をするためには、関係者すべてが、相手の需要を理解し、それ以上の満足を与えるために何が必要かを考えなければならない。さらにもうひとつ、そのために使われる血税が、自分たちの生活にもかかわりがなく、直接的利益として還元されない場合に、どこまでそうした公共投資を受容するのかということも考えなければなるまい。つまり「関係者」は広義では、稚内市民すべてである。
ぼろぼろの施設を改造した「サハリン館」や、何も新たな魅力を提供せずモノで釣ろうという「リピーター」制度は、おそらくこうした市民の覚悟に支えられていない観光関係者が、なけなしの予算の中から苦しみながら生み出したものなのだと思う。そういう苦労に冷や水をかけたいというわけではないが、客観的・第三者的に見れば、それらの取り組みが「競争力」を生み出すようにはとてもみえないというのが、正直な感想である。
弘前に話をもどすと、弘前市内には道の駅が一つ、青森空港に向かう途中にも一つある。また隣町に、岩木山に向かう道中、地元農協がやっている同じような店がもう一つある。どこも観光需要にも答え、地元の人も安く買い物ができるのでよく来ているようだ。稚内の場合に難しいのは、こうした複眼的な思考に基づく設計、つまり市民にも観光客にもウケル施設がつくりにくいということだろう。弘前の町は「おつきあい」の施設を作っても、それなりに市民にも親しまれている。さくらまつりの期間、弘前公園への入場料を取りはじめたことは、市民に親しまれた公園を引き離したので、市民にはきわめて不評だったようだ。それはつまり、観光資源が単に観光資源であるだけでなく、市民にも親しまれているということだろう。今宗谷岬の駐車場を有料化して、市民は怒るだろうか?
観光と市民生活のギャップは、二つを複眼的に考えさせることがないので、それは結果として、市民に観光のことをまじめに考えるきっかけも与えない。子供を大学に進学させることであまり大したメリットがない(と勝手に考えている)ので、地元に大学があることのメリットもあまり考えないのと同じようなことだろう。

稚内北星、秋葉原移転の意義

東京のG大学の学生から、稚内北星の「秋葉原クロスフィールド」進出について、大学宛に質問が来た。
秋葉原の街づくり戦略について、ゼミで研究しているようだ。
誰も答えてないようなので、授業の準備をさぼって、答えておいた。
以下その回答。

稚内北星学園大学の教員をしております、一戸と申します。
以下の件、もしまだ本学からの回答がないようであれば、私のほうから回答させていただきます。この件については、学長の丸山不二夫がもっとも熟知しておりますが、なにぶん学長という立場上非常に多忙でありまして、ご質問への回答を書く余裕はおそらくないだろうと思います。とりあえず可能な範囲で私のほうからお答えしましょう。
> 私今ゼミで、秋葉原の街づくり戦略(ITビジネス等)について研究しています。
> 調べていく上で、稚内北星大学が秋葉原に進出することを知り、
> 詳しくお話を聞かせていただけないかと思いメールいたしました。
まず前提として、秋葉原の街づくり戦略そのものについて、本学が深くかかわっているわけではありません。したがいまして、ご期待に沿える回答になるかどうかはあまり確信がないです。あくまでこの計画に参加するものとしての考えです。
> 具体的な質問内容として、
> ・「秋葉原クロスフィールド」 計画への参加要請を受けた理由とはなにか。
秋葉原におけるIT産業の集積をすすめるにあたって、その一部として本学の取り組みがふさわしいと評価されたものと考えています。従来から稚内を拠点に地道につみあげてきた、Java,Unix,ネットワークを中核とする本学のIT教育が、今春開校した東京のサテライト校でも高い評価となって現れ、さらにそれが「秋葉原クロスフィールド」への参加要請につながったものと考えています。
本当の参加「要請」の理由は、要請する側に別途あるのかもしれませんが、要請された側の推測では、以上のようになります。
> ・秋葉原に進出することによるメリット、デメリットはなんだと思うか。
当方のサテライト校は現在、市ヶ谷にあります。本拠地を東京においていない本学が、東京でプレゼンスを高めるために「秋葉原クロスフィールド」のような知名度の高い取組に加わることは、非常に大きな意味を持つだろうと考えました。
つまり、東京の中で「IT産業集積地」となる場所に拠点を置くことにメリットがあると考えましたわけで、その意味では「秋葉原」というのが必須条件だったというわけではありません。
では秋葉原が今後「IT産業集積地」となるのかどうか、その点は期待を持ってはいますけれども、絶対的な確信があるというわけではありません。90年代終わりに渋谷に「ビットバレー」というある種のムーブメントがあったのをご存知かと思いますが、それと比較してどうかということになれば、立地条件で有利な面、不利な面、いろいろあるでしょう。
本学は、東京サテライト校を単なる連絡オフィスとしてではなく、主として社会人を対象とした教育活動を行う拠点として、設置しております。したがって通ってくる学生の利便性という意味では、市ヶ谷と秋葉原を比較して、今回の「進出」がメリットとなるのかデメリットとなるのかという問題はあります。単純に考えれば、東京の西側からのアクセスという点では、市ヶ谷に若干の分がありましょう。一方東京の東側、あるいは千葉やつくば方面からのアクセスは、秋葉原のほうがいいわけで、必ずしもこの点がデメリットになるとも考えていません。
街のイメージとしては、いまそんなに秋葉原がよいイメージをもたれていると私個人は思っていませんが、明らかにある種の「ブランド」ではあると思います。ただ六本木ヒルズが六本木のイメージを大きく変えたように、このプロジェクト
が「秋葉原」のイメージを変える可能性はあると思います。六本木ヒルズと同様の高い集客効果を持つわけではないでしょうが、またそれとは違う形で(電気街を進化させた形で)「IT産業集積地」に育てていければいいのではないでしょうか。
> ・「大学連携パーク」、「産官学連携パーク」とはどのようなものなのか、
>   具体的にはなにをするのか。
この点は参加する我々の側にも、必ずしも全体像が見えているわけではありません。全体として「何をするのか」は、全体のオーガナイザーに問うていただくよりほかないと思います。
ただ一点だけいえることは、本学の取組が、他大学や企業から正当に評価される素地にはなるだろうと思います。
これまで本学が取り組んできた教育研究活動については、古くからある大学のほとんどが実現できなかった新しいITを大学教育に積極的に取り入れるものとして、稚内という首都東京から遠く離れた場所にありながら、IT業界や他大学から高い評価を得てきました。この点は、本学が企業と協力して行ってきた、東京での各種セミナーの講師陣とその内容のレベル、さらに毎年夏に行っているサマースクールに参加する層(先端的IT技術教育を必要とする社会人やいわゆる有名大学の学生、院生)やそこで展開される教育のレベルついて、本学ウェブサイトで確認していただければ、おわかりいただけるものと考えています。
遠くにいても良きパートナーがいると思ってもらえるならば、訪ねてくる人はいたわけですが、隣にいたらもっと頻繁に訪ねてきてもらえるわけですし、深く知ってもらえるきっかけにもなります。したがって、さまざまな企業との連携や大学間連携の可能性には、実は大きな期待を抱いています。
おそらくは、単純なオフィス街ではなく、人と人、団体と団体をつなげる仕掛けが必要でしょうね。IT業界はまだまだ成熟しきってはいませんから、大企業中心の旧来型の企業間連携とは違って、人と人のつながりが大きな意味を持つはずです。私の知っている限りでも、非常にフットワークの軽い人たちが多いですから、会ってすぐに動き必要に応じてまたすぐに会えるという環境が整えば、大きなシナジー効果を生むと考えています。
> ・どのような生徒を狙っているのか。
3年次に編入する制度ですので、「生徒」=高校生は対象ではありません。
当初の想定では、通常の業務の中で新しいITの必要性を感じている、IT業界の社会人をターゲットとして考えました。この層に対する本学の訴求力については、すでにサマースクールや東京でのセミナーによって、ある程度の確信を持っていました。技術が急速に進歩する中にあっても、陳腐化した技術を用いたシステム開発や保守運用といった業務がすぐに消え去るわけではなく、実はそのタイムラグが、働く人たちへのしわよせとなって現れます。つまり、日常業務におわれる中で、気がついてみたら自分が働く中で培った技術は社会の中で陳腐化し、自らの労働市場における価値が低下してしまっていた、ということが起こるわけです。「使い捨て」ですね。これに対して、大学として真摯に向き合っていこうというのが、基本的な考え方でした。予想通り、「wakhokの教育を東京で受けられる」として、大きな反響がありました。
ITという、情報といい、多くの大学が学部を設置しています。しかし、実はこうした基本的な需要にこたえる技術教育は、大学ではすっぽり抜け落ちていることが多いです。これには、高校や受験界の文系・理系のような旧来型の仕切り方も影響していると思います。高校の情報教育もあまりうまくいっていませんので、相変わらず「雰囲気」だけでよく考えずに「情報系」学部に進む学生が多いのでしょう。したがって、現役学生の層、すなわち、短大、高専、専門学校、大学を卒業したての人たちについては、編入学の資格を満たすものの、「社会でどのような技術が必要とされているか」をご存じないので、あまり大きな反響はないだろうと考えていました。ところがそうではありませんでした。
○○さんの先輩の中にも、SEとしてIT業界に就職して、ほとんど一から技術を学んでいるという方がきっといらっしゃると思います。大学は「情報」や「IT」を掲げていてもほとんどなにもしていないところが多いですし、企業側もそれに
対応する形で、手厚い研修制度をおいて「入社後」の教育に力を入れてきました。つまり大学卒の「即戦力」というのは、ほとんど期待されていなかったわけです。ところが昨今は、中国やインドでの「オフショア開発」が流行してくるなど、「日本のIT開発でも、これを担う人材は必ずしも日本人でなくてよい」という時代が訪れつつあります。研修コストもその後の人件費も高い日本人の新卒が、IT業界でそんなに重宝される時代ではありません。
こういった背景もあるのでしょう。本学への3年次編入を希望する若い層は、増えてきています。本学としては、こうした背景を踏まえて、高い意識をもって学ぶ学生ならば、社会での経験が必ずしも十分ではなくとも、積極的に受け入れていこうと思っていますし、それがすなわち日本のIT産業の底上げになるものと考えています。
以上、基本的に私個人の考えを書いたつもりですが、本学全体の意思としてもそんなに外れてはいないと思います。さらにご質問がございましたら、どうぞご遠慮なく。良い研究成果が出ますことをお祈りいたします。

4年目へのブリッジ

今年の4年生の卒業研究も、例によって遅れ気味だ。
今年の学生たちはわりとみなアクティブで、就職のみならずその他いろいろな活動に忙しく、そのせいもあるのだが、例によって卒論を書くための準備作業がぜんぜんできてない。今日は夜遅くまで大学に残り、一人一人話を聞いて、ぐったり。
「読めない書けない」という、これまでの訓練不足を補うセンスがある学生はいいのだけど、そうではない学生はいつも大変だ。じゃあ事前に訓練を積んだらどうか。まさにそのとおり。少なくともずっと下の学年から所属していた学生については、責任を感じる。
訓練といって何をやるかだが、一つはアウトラインの作成。どういう論理構成をとるかという思考回路は、自分もそれなりにいつの間にか身につけたように思うのだが、実践的にそれ自体を目的にどのようにトレーニングするべきなのか。結局僕がテクニカルライティングを勉強しなおすしかないのかな。
ただこういうのは、振り返ってみて必要性を感じるものであって、最初からやらせると学生はついてこないような。
もう一つは、この前有斐閣からきた冊子に載っていた、要約の練習。法科大学院でも、資料の電子化に合わせて、膨大な判例資料を要約する訓練をしようという話であった。「まとめるといってもどうやってまとめたらいいかわからない」といって、そのままパワーポイントに抜書きだけを羅列して、しかも中身を理解していない学生が多い。その意味ではこの取り組みも有効だろう。
さて、これを4年になってからやるのでは遅い。もっと早い段階でやらないといけない。「読めない書けない」に加えて「読みたくない」学生たちに、どうやってこういう「訓練」調のものをやらせたらいいのか。欲張らず、中身はさしたる専門性のないたわいもないものにして、要約するという作業にまず集中させたらいいのか。
稚内の学生の中には、小中高の基本科目の勉強で挫折したが、得意のコンピュータでいわば「大学デビュー」をしていきいきとやっている者も多い。それはそれで学内的には教育の成功と見られていて、実際就職でも成功するケースが多い。しかし「デビュー」してみたけれども、それほど華々しい「デビュー」とならなかった学生には、やはり上のような別の意味での基本的実践的能力をつけさせなければならないのだろう。しかし「デビュー」以前の暗い過去に引き戻されるような、いわゆる「訓練」ものは、学生の意識をむしろ下げてしまう面がある。
東京サテライトでも稚内でもそうだが、今のカリキュラムに改善点を発見したからといって、そのギャップを埋める仕事を一人でできるわけではない。勉強すればできないことではない場合が多いと思うのだが、それでは体がもたない。

成都の風景8

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回転寿司式火鍋。自由に具材を取って鍋に入れる。
鍋は紅白二つのスープに仕切られている。
赤いほうは唐辛子がたっぷり入っていて、むせるほど辛かった。
二色の火鍋はあちこちでトライしたが、赤いスープの辛さはさすが本場四川、であった。
たぶん成都で一番新しいおしゃれな店の一つなのだと思うが、学長と私の評価としては、「普通の四川料理のほうがいい」。二人とも基本的に辛さには強く、普通の日本人なら投げ出しそうな本場四川の猛烈な辛さにも平然としていたし、今回は冷静に複数の店の味を比較することもできた。
ちなみにそのとき店では、オリンピックのバレーボール女子「日本-中国」をテレビで放映していたが、その場にいた日本人の立場が危うくなるというようなことはなかった。バレーとサッカーではぜんぜん違うようだ。

Hotwiredのブログスタート

Hotwiredでブログがスタートした。
小倉弁護士とフリーライターの佐々木俊尚さんのブログがそれぞれ面白い。
小倉先生の「blogの隆盛と匿名主義の克服」は、全体としての論旨にも個人的に賛同できるし、それだけではなく、学生の皆さんに法律家のバランス感覚がどんなものなのか、読んで考えてみてほしい。これは法律家だけに必要なものではなくて、皆さん一人一人に持ってもらいたい感覚でもある。こういうことを自分自身の言葉で伝えられたらと思うが、まだまだ力不足で、うまく伝えられていないし、伝わっていない。
佐々木さんのSkypeの記事も面白い。P2Pを使った音声電話がどこまで浸透するのかは、これから注目だ。NTTなど既存キャリアのSkypeへの冷ややかな反応は、嵐の前の静けさにすぎないのだろうか。本当にこのサービスが既存の音声サービスを駆逐していったら、安定的にあまねく公平なサービスを提供することを原則としてきた電話のサービスは、どうなってしまうのだろう。災害時の通信手段の確保という点からは、遠い将来(ひょっとしたら近い将来)また新たな考慮が必要になってきそうだ。

情報共有

数日前の「郷土愛」の弊害には、いくつかコメント、トラックバックをいただいた。ぼかした書き方をしたのと、いくつかの論点を一度に書いたので、コメントのポイントもいろいろだった。
まず稚内にも「外から見える稚内」についてちゃんと考えている人がいる、という意見。
それには同意する。でも、その少数の良識が全く通じる気配がないというのが問題だ。それと、良識なんかなくてもなんとかなる、という楽観的な立場に稚内がいないということがまず大前提になる。「観光」がなければどうにも立ち行かないというのは、都市の構造として非常に悲観的な状況だし、その頼みの綱の「観光」をなんとかする機運もないというのは、もはや絶望的だ。で、いいたかったのは、にもかかわらず「地域に根ざしてくれ」という大学へのリクエストは無茶苦茶なのだということ。何に根ざしたらいいのだろう?そんなに何もないんだったら「大学に根ざしてくれ」とこちらからもいいたくなるというのものだ。IT産業の集積について、何か考えていただいたことはあるのだろうか?学生の起業支援なんて話は、全く聞こえてもきません。
情報共有のチャンネルを作っていくことが大事というもう一つの意見。そう思う。
GREEのサービスを使って感じるのは、非常に都会的な情報共有スペースだということ。これは都会のユーザが多いという意味ではなくて、他人との濃淡のある付き合い方や濃淡のある情報共有があるという意味だ。東京では、電車の中や喫茶店などで、いやおうなしに他人の情報が入ってくる。しゃべっている内容が聞こえたり、服装が目に付いたり。で、他人のことは大して気にはしていないのだが、ちょこちょこ意識せずにいろいろな情報が入ってくる。また人ではなくても、たとえば電車の中吊りとか街に出ている看板から入ってくる情報もある。それらはそんなに集中して情報を取り入れる対象にはなっていないが、自然に入ってくる情報として意識の隅っこに置かれることになる。田舎にいると他人を凝視していろんな情報を得る人たちがいる一方で、自分にかかわりのない情報がちょろちょろ入ってくることが極端に少ない。情報が少ないから他人のことをよく見ているのかもしれない。
GREEは友達の意外な一面がわかるだけでなく、友達の友達のことがだいたいの人となりまでわかるようになる。Blogやおすすめの本の情報もちょこちょこ入ってくる。それらは必ずしも自分の興味の範疇に入るわけではないが、まさに「意識の隅っこ」に置かれることになる。「外の世界」を感じたからといって、一足飛びに「田舎者」でなくなるわけではないが、「中吊り広告」のない街の人には、結構大きなインパクトがあるように思う。
まず稚内掲示板の書き込みに、知性のかけらもないという状態は、なんとかなるかしら。2ちゃんねるの稚内版と割り切るにしても、あまりにもひどい。

Koyote

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GREEのグループはいつまでたっても二人のまま。
「ヨン様」ブームもこちらにはあまり波及効果がないようだ。
というわけで、少しずつ韓国のみならずアジア音楽の紹介もしていこう。
ちなみに、アジアのCDや洋書は、GREEのおすすめには掲載できない。アマゾンのデータベースに入っていないようだ。
最近再度のマイブームが訪れたKoyoteは、一戸ゼミ生で僕の車に乗ったことがある人なら、「歌手名は知らないけど曲は知っている」というアーティストだ。一戸車からときどき爆音が出ているアレです。非常に韓国的な古典的なメロディを時折取り込んだダンスミュージック。男女混声ユニットで、メインボーカルのシンジ(女性)の伸びやかなボーカルが印象的。ソウルの街角や歌舞伎町で耳にしたことがある人も多いだろう。
興味をもたれた方は、公式サイトまで。韓国語がわからなくとも、「Video Clip」のリンクを上から適当にクリックすれば曲が出てきます。
また日本語での詳しい情報は、Turbo Clubにて。丹念な日本語訳にはいつもながら頭が下がる。

規制緩和

カテゴリに迷うが、「学問」というほどのものではないかな。
「約束のトラックバック」になるかどうかわからないけど。
いろいろ世の中について考えはじめた人(たち)へ。
卒業していった皆さんがどうしても読んでくれなかった、レッシグ先生の「コモンズ」を今ゼミで読んでます。昨日読んだところに、リソースのコントロール方法についての記述がありました。リソースのコントロールの方法には、法や規範、市場、技術という種類があると述べられているいうことはおさえておこう、卒業生諸君。彼の議論は、非競合的なリソース(誰かとわけあっても減らないっていうこと)である知的財産の保護方法として、法が適切な機能を果たしているのかにここから向けられていくのだけど、ちょっとそれは置いておきます。ここで取り出したいのは、市場が世の中をコントロールするという考え方について。この本では、「前提」になる部分です。
「何でもかんでも国が勝手に決め付けすぎ」ということについて、考え始めたようですね。そうやってまずいろいろ考えてみることが大事です。
大まかには、そういうことを「規制緩和」というテーマで、世間では議論してます。
一般市民、一般企業の商売を国が邪魔すべきではない、というのは、まず原則として今の社会の基本原則です。憲法上も、営業の自由が保障されています。これは市場(しじょう)がバランスを取ってくれるという考え方に基づいています。つまり。高過ぎるものは売れないし安いものは売れる。売れたらちょっと値段上げてもいいかなと売るほうは考える。また、値段だけじゃなくて、品質のいいものは売れるし、悪いものは売れない。そうやって、世の中というのは、競争を促すことによってだいたいバランスがとれるもんだという考え方が、基本にあるわけです。この基本を貫くならば、人の商売に政府が口出しするのはけしからん話なのです。問題はその先。
でも「いいもの」ってなにかわかりますか?世の中、自分の商品やサービスを売りつけるために、いろんなうそをつく人もいるわけです。それを見抜くことは、我々消費者にできますか?たとえば電気屋さんに行って、店員のパソコンについての適当な説明をきいたときに、「ああこういう適当なトークにだまされて買う人もいるんだなあ」と思うことはありませんか?あるいは自分もよくわからないで口車に乗せられたりする人もいるかもしれません。肉の産地が偽装されていたり、BSE感染していたり。これは普通見抜けないよね。
それから、それを売り買いすることが社会的に望ましくないものもあるでしょう。麻薬とか銃とか。これも「いいものは売れるし、悪いものは売れない」という仕組みでは、排除できません。
それとここから先はもう少し複雑ですが。たとえば、先日市内のある本屋が突然閉店しました。どうやら新しく進出してきたビデオ店に併設された書店に、だいぶ客を取られていたようです。それが「競争」だといえばそれまでです。でも、そうやって地元の店が駆逐された後に、やっぱりここじゃ商売にならないからやめるわ、といって、外から進出してきた店も撤退してしまったらどうなるでしょう?どっちも人の商売だからほうっておいていいのだろうか。
どれについても答えをここで書くつもりはありません。でも、国が何も決めなかったらそれはそれで困りそうですよね。今のこの国のムードとしては「国がなんでも規制しすぎる」という雰囲気があります。おおむね僕もそれには賛成です。ただできれば、これをきっかけに、上にあるような問題について、もう少し考えてみてくれるとうれしいですね。
ああなるほどと思った人、もし日本国憲法のテキストを捨ててしまっていなければ、経済的自由に関する記述のところをもう一度眺めてみて。「あー、あいつの講義では何のことやらさっぱりだったけど、そういうことか」と少しは理解してもらえるような気がします。
大学って、「振り返ればそういうことも勉強したかも」っていうことが多いと思います。

「郷土愛」の弊害

かつて僕が高校生だった頃、青森の地元紙では、県内のどこの高校の誰がどの大学に合格したか、合格発表を受けてその情報が新聞に載った。早稲田大学に合格して自信満々だった僕は、ぜひ新聞に載せてほしかったが、早稲田は個人情報を新聞に流すようなことはなかった。今思えば当たり前のことだが、当時の個人情報に関する意識は、その程度だったのだろう。
その情報欄と同じものだったかどうか定かではないが、地元弘前大学や青森大学については、県内の高校だけでなく、全国のどこの高校から地元の大学に合格したかも掲載されていた。沖縄からも青森の大学に進学している人がいて、「こんな寒いところに沖縄からやってきて、生きていけるのかなあ。よく決心したなあ。」と思った。北大出身の母親は、「案外暑いのところの人の中には、雪が降る街がロマンティックだとあこがれる人もいるんだよ。」と言った。なるほどそうかもなあと思った。
月日は流れ、そんなのんきなことを言っていた僕は、青森よりさらに北の稚内にきて、「こんな寒いところにある大学」で仕事をしている。大学経営をめぐる環境の厳しさは、僕が子供の頃と比べるまでもない。厳しい環境にあって、「こんな寒いところにある大学」をどのようにプロモーションしていくのか。
1.こんな寒いところにあるけどすごい大学
2.寒いけど素敵な自然に囲まれた北海道の大学
3.寒いけど素敵な自然に囲まれた北海道にあって、なおかつすごい大学
むろん3が一番いいのだが、実は「素敵な自然に囲まれた」というのは、北海道の外には訴求できても、道内の人の心にはほとんど響かない。なにせ、札幌の人ですら、基本的にはみんな「自然に囲まれ」て暮らしているのである。そうするといきおい、力点は1の「すごい」の部分に置かれることになる。
市内某所では、現在大学に対する今後の支援内容について、議論が行われている。僕は議論の対象になっている組織の人間であるが、そこに参加している人間ではないし、それに影響を及ぼすつもりもない。ただ、個人的に思うことをささやかに書いているだけである。といっても、多少奥歯にものがはさまったような言い方になるかもしれない。
稚内という街が魅力的であることは、稚内北星学園大学の学生にとって望ましい状態であることはいうまでもない。理想はYale大学のあるNewheavenにあった。アメリカ北部にあるこの街も、NYから一時間程度であったが、小さな街であった。冬には結構雪も降るようだ。大学のキャンパスは街の中にあって、その周辺には学生向けの書店、コーヒーショップなどともに、大学付属の美術館、劇場などがあった。市民向けの商店街は別にあったのかもしれないが、少なくとも学生たちはほとんどそこで完結して生活しているようだった。よく考えてみると、なんでもそろう街という感じではなかったが、文化が生み出される雰囲気は漂っていた。ちょっと違うが、早稲田大学周辺の町並みにも、もう少し世俗的ながらそういう雰囲気は感じられる。
むろん理想は理想である。単科大学の稚内北星の規模で、学生だけを相手にした商売がそうそう簡単に成り立つとは思わない。しかし大学のある富岡地区をいかに発展させ、大学を中心とした街づくりをするのか、何か皆さん考えていただいたことはあるのでしょうか?富岡地区は勝手に住宅地として拡張を続けているが、そこにはトータルな街づくりプランが反映されているのでしょうか?
「一見さんお断り」の京都の町でも、外から来た大学生は大事にされる、とよくいう。本当のところはどうなのかわからないけれども、観光の街京都では、学生を長期滞在の「お客様」として、大事に扱うという所作動作ができているということではないのだろうか。観光リピーターキャンペーンをやっている稚内も、長期滞在の潜在的「観光大使」である学生たちに対して、同様のホスピタリティを発揮してなんら問題ないはずである。たとえ大学周辺を「大学城下町」として育てるのが無理であっても、じゃあ中心街に学生が集えるような交通手段は、十分に確保されているのでしょうか?みんな車ですよ。「イチオシWAK」という大学ウェブページ上の企画で、学生たちが市内の飲食店を取材しているのだが、どうも中央地区の飲食店に学生たちがあんまり出入りしていないようだ。交通手段がなかったらそうなるだろう。そんな大げさなことをやらなくたっていい。この小さな街で、毎年入ってくる大学生がいることの経済効果を考えてみたらどうだろうか。結構学生たちは、コンビニでものすごいポイントをためてますよ。コンビニ一人勝ちは、街の人も買っている当の学生も、あんまりうれしくないはず。
大学を街づくりにどのように位置づけるのかという問題が、今の議論には欠けている。といっても、市民講座のようなもので短期的な成果だけを求めると、企画した人だけが「やったような気」になるだけで、あんまり意味がないだろう。一番大きいのは街の人の意識と大学の意識のずれである。大学の企画する「高尚」な企画を今のところ市民は歓迎していないし、逆にあまりに世俗的な市民のニーズに大学がこたえる用意もない。「文化のにおい」が出てくるような街づくりがなければ、結局何も成果をもたらさない。といってもそんなに高尚なことじゃなくてもいい。学生が街に出て活動しやすくすること。端的にはこれだけだ。一部の興味ある学生や教員が、市民と交流するのではない。でもどこかの大学のように、地域対策で教員をみんなお祭りに強制参加させるのも意味がない。自然に人の交流が生まれるためには、小さな勉強会がいつもどこかで開かれていて、その情報がいろんなネットワークを通じて参加していない人にも流れていて、そこに対するアクセスが容易であること。まずその辺を側面支援することから始めたらいいのではないか。この面でも市民の大学へのアクセス手段が限られていることについて、もう少し考えがあったほうがいい。
今話題に出ている「カンフル剤」(地元の人は地元紙参照)はほとんど意味がないだろう。実態がどうあれ、「さいほくの街」というのは、外から見れば「住みたい街」の上位にくることは決してないところだ。谷村志穂にいわせれば「色のない街」である。この街が、上に見たような「大学を活かしたまちづくり」を展開するか、大都会に突然変異をしない限り、ほとんど意味がない。地元の人たちの「郷土愛」は、自分たちの街の客観的な立場を見る視点を曇らせている。たしかに稚内は外の人がイメージするほど大変なところではない。しかし外からどう見られているのか、よく考えてみれば、観光にせよ大学対策にせよ、「やったような気になる」だけの施策では、根本的な解決にはならないし、短期的にも大して効果を生まないだろう。「対策」の対象たる大学の側としては、そうした外枠での施策に抜本的な改善の兆しが見られないのであれば、自らの経営改善を第一に考えて、「街の魅力」よりも「大学の魅力」に頼らざるをえない。
たぶん解決策はある。ひとつの考え方は、ネットワーク。情報ネットワーク利用の質的向上と動機付けか。今の稚内市民には、街での生活にメリットある情報が、ネットワーク上に転がっていない。まずそうした情報の提供を促すために、民間セクター(具体的には市民のよくいく店)の情報をネットワークを通じて流し、なおかつネットワーク経由の情報にはありがたみがあるようにする。それと交通ネットワークの整備、それからこのネットワークは、観光客にとっても有益なものにすること。大学ではソーシャルネットワーキングが動き始めた。この動きは、市民のネットワーク作り、シームレスにつながる市民と大学のネットワーク作りに、確実に一役買うはずである。