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1964年の新聞の存在感を感じさせる「地震のなかの新潟日報」

新潟市立中央図書館で発見した、1965年発行の本「地震のなかの新潟日報」。Amazonでは古書としても購入できない。最初のところを少しだけ読んでみた。

目次
序文
– 新聞はこうして続けられた
– 原始との戦いー震災当日の本社
– 本社の被害は?ー同四支社
– 読者への使命感ー震災二日目
– 紙面不足に泣くー震災三日目
– 製作、ほぼ軌道へー同四日目
– 県紙の主導性ー二十日以後の活動
– 孤立と戦うー下越八支局の動き
– 焦燥に暮れる日々ー同上、中越十二支局
– 評価と教訓
編集後記

1964年(昭和39年)6月16日に発生した新潟地震の際に、新潟日報がどのように新聞を発行したかを淡々と報告している。この地震では、新潟市内は液状化で大きな被害が発生、建物の多くも倒壊している。信濃川沿いの集合住宅が倒れている様子、できたばかりの昭和大橋が崩れている様子が、よく紹介される。また、昭和石油新潟製油所から発生した火災で、黒煙がもうもうとまいあがる様子もまたよく知られている。火災の黒煙が市内全域を多い、煙と油のにおいにつつまれたという。

新潟日報では、「電力、電話、交通の途絶、活字のウマは倒れ、ガス、水道さえ出ない」という状況の中で、被災者に最新のニュースを届けるべく奮闘したという。地震発生直後、正面玄関に集まった社員を前にして、社長がPRカーの上から「いかなる困難をも克服して新聞を発行すべきであり、それが新聞に課せられた最高の使命」と述べた後、中野取締役が「天災地変に際してこそ新聞発行の意義は重大である。人心安定、秩序維持の役割りを果たすものは新聞をおいてないではないか。」と呼びかけている。

現在においても新聞社の人々は「人心安定、秩序維持の役割りを果たすものは新聞をおいてない」と思っているかもしれないが、実際のところ、今は「人身安定、秩序維持」に寄与するものは他にもたくさんあり、「人心安定」にはまずは新聞だと思っている人は多くないだろう。もちろん、「人身安定、秩序維持」を不安定にする情報も多数あるので、マスメディアがきちんと検証した情報を送り出すことが大事ではある。新潟地震でも、さまざまな流言飛語が飛び交っていたところ、それを新聞が打ち消したということはあるようだ。その意味では今も昔も、マスメディアが果たすべき役割りは本質的には変わらない。ただ当時の新潟日報の人々が負っていた責任というのは、今とは比べ物にならないほど、大きなものだったといってよいだろう。当時の新聞の社会的存在感の大きさを感じさせるフレーズであった。

当日のラジオがどのように実況していたか、録音した人がアップしているが、ここでは、以下の毎日映画社が掲載しているニュース映像を紹介しておく。

6月16日午後1時2分、新潟沖を中心とするマグニチュード7.5の大地震が発生。液状化現象で県営アパートや昭和大橋が壊れ、昭和石油新潟製油所のタンクが爆発し、燃え続けるなど、壊滅的な被害を与えた。※ナレーションでは「マグニチュード(M)7.7」とありますが、その後「M7.5」と発表されました。

最北に暮らす若者が映像で語る地域:観光地稚内の日常は、「内地」の人々に何を伝えるか

私の前任校稚内北星学園大学の学生たちが、「私の暮らすまち、稚内。」を短い映像作品にまとめたものが、先月開催されたわっかない白夜映画祭で上映されています。また、このとき上映された作品がYoutubeに公開されています。北海道稚内市は、日本最北端の街です。最北端に暮らす若者のリアルな思いが、映像に現れているように思います。

第1回白夜祭:日本一短い夏至の夜を楽しんで…稚内 – 毎日新聞

私の暮らすまち、稚内。 – YouTube

いくつかの作品を見て、私にとっては、稚内に暮らしていた時の感覚を呼び起こすような懐かしさがあるわけですが、本州(北海道の人たちは、今でも「内地」という言葉を使います)に戻ってきてからの自分の感覚で考えると、「遠い」作品です。この「遠い」という感覚はどういうことなのか、考えてみました。

中央のマスメディアが伝える情報は、地方に行けば行くほど、遠い「東京からの情報」になります。その意味で言うと、稚内で見る「東京からの情報」は、相当に「遠い」です。この「遠さ」を補うのが「地方紙」などの地域メディアですが、これもカバーするエリアが広くなると、遠い「県庁所在地からの情報」を流す存在になります。

北海道の場合には、道庁のある札幌の存在感が大きく、札幌近郊とそれ以外のギャップが大きいです。大学教員として6年間暮らした稚内では、東京ははるか遠くにあり、札幌も結構遠くにある(たしか360キロ離れている)都会です。どちらのニュースも遠い世界の出来事のように感じます(もちろん陸続きの札幌は相対的には近いのですが)。

北海道新聞はブロック紙の一角を占める大手の地方紙ですが、稚内は北海道の中でもさらに遠く離れた「地方」ということになります。地方の中の地方である稚内には、全国紙の取材体制は十分になく、テレビ局もNHKの報道室があるだけでした。「地方の地方」たる地域に関する情報は、札幌や東京のメディアに取材されて伝わっていくことはほとんどなく、稚内や宗谷地域限定の地元紙の中だけで共有されることが多いです。人々のメディア空間は、インターネット時代になって、変わった部分もあるのですが、この「遠さ」を背負ったままであるように感じることが多かったように思います。

一方、都会の人が稚内のことを知らないわけではありません。都会の人から見れば、稚内は「辺境」ですが、同時に宗谷岬があり、カニがあり、近くに利尻・礼文のある「さいはての街」として知られています。いいかえれば観光地として、稚内はある意味「エッジが立った」状態にあり、この角度での情報だけが、いわば「つまみ食い」され、多く流通しています。

結果的に稚内という街は、観光地としてのエッジの立った部分だけが「全国区」となっていますが、この街で暮らす人達のことは、ほとんど知られていません。観光地である地方都市というのは、大なり小なりそうだと思いますが、稚内を始めとする北海道の地方都市の場合には、北海道特有の複雑なメディア構造の下で、この傾向がさらに強まります。結果的には、稚内の人たちも、自分たちのことを中央メディアを通して共有する機会が、非常に乏しくなります。

最北の大学で映像制作の授業が始まったのは、私が赴任した2000年ですが、それから14年、この授業では稚内や宗谷をさまざまな角度から伝え続けています。最初はYoutubのような動画共有サイトはありませんでしたので、当初の作品はどこかにお蔵入りしているようですが、ここ数年の作品はYoutubeにアーカイブされています。映像制作を指導している教員も、私が教えていた時代に学生であったNPO法人のメンバーが担当するようになりました。

稚内北星で制作された動画は、数々の映像賞をとるなど、高い評価をえていますが、地元と都会、それぞれの世間の関心の間隙、谷間に沈みがちな「稚内ローカル」だけを狙った作品ではなく、「内地」の人の関心を意識して作られていたように思います。以下はいくつもの賞を受賞した作品「待合室の片隅で」。建て替えになった稚内駅で営業していた立ち食いそば屋を巡るストーリーで、最北を目指して旅をした人々の心をくすぐりつつ、題材は地元の人々の暮らしです。決して稚内人の関心だけに向けて作られているわけではないと、私は感じています。

今回の作品は、うってかわって非常に「稚内ローカル」な作品です。地元出身の学生たちが、自分たちの思い入れのある場所について、そのストーリーを短い映像で紹介しています。南小学校や南中学校への思いは、稚内人ではない人には「遠い」ものですが、現地で6年暮らした私には懐かしくもあります。観光地ブランドの稚内ではなく、日常の稚内とそこに暮らす人々の思いは、観光地として稚内に来たことがある人や、全く縁のなかった人たちに、何らかの形で「最北」の一断面を伝え、心のなかに何かを残すことができるのか。この動画への反響に、注目したいと思っています。

(Yahoo!ニュース個人より転載)

六本木にオープンした「ウルフギャング・ステーキハウス」、行く前からビジュアルにやられた

ニューヨークの名店だというステーキハウス「ウルフギャング・ステーキハウス」が、六本木にお店をオープンしたそうだ。

ウルフギャングステーキハウス

Wolfgang's Steakhouse Roppongi ウルフギャング・ステーキハウス – Official Website

10年ほど前に、ニューヨークで友人に連れて行ってもらった店が、このような感じのステーキ店で、とてもおいしかったのを思い出した。なんていう名前の店だったかは思い出せない。

六本木のこのお店、オープン直後は予約殺到だそうで、しかもステーキの値段も見たことがないようなレベル。しばらく行く機会はなさそうだが、ぜひ一度行ってみたいとは思う。ロケットニュースは早速動画入りで紹介している。

【究極グルメ】NY最強ステーキ日本上陸で予約殺到! 現地の味を再現したシェフに敬意を表する! ウルフギャングステーキハウス | ロケットニュース24

実を言うと、映画「フード・インク」を見て、「牛肉は国産に限る!」と思っていたわけだが、いやしかし、このビジュアルには圧倒されてしまったというのが正直なところ。妻にはあきれられた。

映画『フード・インク』公式サイト

米国の食の実態を描いたノンフィクション映画「フード・インク」 | ICHINOHE Blog

新潟ソーシャル時評:「放射性廃棄物処分と地方」の問題に切り込んだ連載「狙われる地方」

新年から、新潟日報モアのブログに投稿したものを、数日経ってから個人ブログ「ICHINOHE Blog」にも転載させていただくことにした(すべて転載するかどうかは決めていない)。新潟日報モアでは、原則「ですます」で書いているので、少しテイストが違うのだが特に修正はしない。

(2014年01月15日新潟日報モア「新潟ソーシャル時評」から転載。)

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新年明けましておめでとうございます。今年も「新潟ソーシャル時評」をよろしくお願いします。

新年最初の記事は、1月1日から8日まで「第一部」が連載された「狙われる地方」をとりあげてみましょう。

「狙われる地方」は、今年の新潟日報の通年企画の一つ「再考 原子力 新潟からの告発」の最初の連載企画です。

以下のような内容が掲載されています。単に新潟の視点に立つだけではなく、「地方」の視点から、多角的に放射性廃棄物処分の問題に迫っています。

1.2011年、原子力発電環境整備機構(NUMO)の勉強会支援事業に、関川村の住民が応募、ほぼ採択の通知を得ました。その後東日本大震災が発生し、NUMOのすべての事業が中断、この勉強会も事実上頓挫した状態になっています。関川村の湯蔵山は、80年代に、放射性廃棄物の地層処分の「適地」として、旧動力炉・核燃料開発事業団(動燃)の報告書に記載されています。記事の中では、この勉強会の目的は、「地層処分」に対する理解を深めて、最終処分地の候補として、徐々に地ならしをしていくことにあったと、示唆しています。

2.2000年成立の「特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律」には、附帯決議があり、その中では、最終処分地を決定するにあたっては、「人口密度等」の社会的条件を考慮すると書かれています。これはつまり事実上、人口集中地域を外すという方針ではないかと、記事は指摘しています。関係した議員の発言等を見ても、そもそも「都会に作る」という発想はなかったということがうかがわれます。

3.小泉元総理が、「10年以上かけて1つも処分地を見つけられない」ことを理由に「即時原発ゼロ」を主張しています。一方では、これに刺激される形で、政府与党も動き出しています。12月には、高レベル放射性廃棄物の最終処分推進の超党派議員連盟が発足、経産省でも国のエネルギー基本計画案の中で、最終処分地の決定を「国主導」で行う方針が示されています。

4.最終処分地は決定されていませんが、地層処分に関する研究を行う機関は、北海道幌延町と岐阜県瑞浪市に設置されています。幌延町は当初、地元の「手挙げ」により、最終処分の候補地となりましたが、結局核のゴミを持ち込まないという条件付きで、研究施設が設置されることになりました。現在、最終処分地の決定を行うにあたり、地元からの「手上げ」方式は機能していません。処分地決定の最初の段階である「文献調査」に、一度高知県東洋町が応募したものの、結局、選挙で反対派町長が当選し、頓挫しました。これが、唯一の事例です。そこでこの状態を打開するため、「国主導」という考え方が検討されているわけです。「国主導」になるということはつまり、地方の意向がないがしろにされるおそれがあるのではないか。この点が本連載では示唆されています。ちなみに新潟県には、80年代の動燃報告書で、最終処分地の「適地」とされた場所が7ヶ所(村上市、関川村、阿賀野市、阿賀町、魚沼市)あります。

5.最終処分地設定を行う機関原子力発電環境整備機構(NUMO)は、高レベル放射性廃棄物の最終処分地選定を担う機関として、2000年に発足していますが、なかなか実績を挙げられないまま、現在に至っています。実はNUMOの職員の6割が電力会社からの出向者で、役員も経産省OBが並んでいるという「混成部隊」であり、最終処分地を決めるという難題に取り組むには、「悲壮感」や「使命感」が十分ではないという指摘が、記事の中で紹介されています。

6.青森県むつ市に、リサイクル貯蔵(RFS)の中間貯蔵施設「リサイクル燃料備蓄センター」が完成しました(1月15日に、安全審査を原子力規制委員会に申請しています)。柏崎刈羽の貯蔵プールをの8割を埋めてしまった(他の原子力発電所の貯蔵プールもかなり埋まっているという)使用済み核燃料は、ここに運ばれ、再処理までの間、保管されることになります。新潟から排出される使用済み核燃料が青森へ。地方から地方へと、負担がつけまわされる構造です。青森県もこの施設を作るにあたり、「最終処分地にしない」との約束を、政府と確認しています。

7.2012年9月、日本学術会議は、「暫定保管」という考え方を提唱しています。高レベル放射性廃棄物の最終処分地が決まるまでの間、取り出し可能な場所に廃棄物を置いておくという考え方です。使用済み核燃料の再処理を前提にした核燃料サイクルが止まってしまえば、「核のゴミ」の行き先はなく、この「暫定保管」によって、最終処分地が決まるのを待つしかなくなるのではないか。そうなれば、柏崎刈羽の構内でも、永久化の懸念を抱きながら、「暫定保管」をするしかなくなるのか。

連載の最後では、再稼働問題は使用済み核燃料の処分問題と不可分であり、いずれの問題も、中央と地方のあり方を問い直す大きな課題であると、結ばれています。

2000年から6年間、私は北海道稚内市に住んでいました。稚内市から幌延町は、車で1時間ちょっとの距離にあり、幌延町はよく出かけた場所です。この地域で幌延町は、深地層研究センターの受け入れで潤っている町と見られていました。深地層の研究をしているだけで、最終処分地にしないといっているけれども、「でも本音は最終処分地にしたいのでは?」と、思っている人が多かったように思います。

青森県は私の出身地ですから、六ケ所村に、使用済み核燃料を処理する、核燃料サイクル基地があることは知っています。かつては六ケ所の問題が国政選挙の争点となり、「核燃まいね(ダメ)」を掲げた候補が、選挙に勝利したことをも覚えています。またむつ市に貯蔵施設を作る計画があることも知っていました。青森県自体が貧しいがゆえに、このような施設を受け入れなければならないのだろう。しかしこれでいいのだろうか。と思いつつ、当時の私は正直、あまり関心がありませんでした。

新潟に住んで7年、中越沖地震が起き、柏崎刈羽原発の安全性が問われ、その後東日本大震災で、福島第一原発で重大事故が起きました。使用済み核燃料を燃料プールで保管しておくことの危険性も認識されました。

こうした「負担」はすべて、「地方」が受け入れています。しかし原発を稼働させ、廃棄物を貯蔵し、処分するところまでは引き受ける地域があるのですが、「最終処分」という大きな負担を引き受ける地域は出てきません。最終処分地を急いで決めなければならないとするならば、「地方」が手を挙げるのではなく、国が責任をもって決めるという方向に行かざるをえないでしょう。そのとき私達は、たとえ自分たちに負担が回ってこなかったとしても、負担を押し付けられた地域の立場に立って、考えることはできるでしょうか。

この原発の問題についてはとりわけ、原発立地県の新潟県民の中で、東京の人たちの「エゴ」を感じる人も多いでしょう。しかし自分のところに負担が回ってこなかったとき、同じように問題を軽く考えてしまうとすれば、東京の人たちの姿勢を軽々しく批判することはできないでしょう。

今回の連載は、「新潟の視点」ではあるけれども、青森や北海道といった他地域の事情も取材して、それぞれ「点」として存在している原子力関連の各地域の問題を、つなぎあわせることに成功しています(私の関係する地域が多く出てきたので、特にそう感じたのかもしれませんが)。今後も、「新潟の視点」を維持しつつ、「原子力」について多角的に考えさせるような連載を、このシリーズに期待したいと思います。

地層処分については、先行して地層処分の施設建設を進めている、フィンランド、オルキルオトの施設を取材した映画「100,000年後の安全」がありますね。

映画『100,000年後の安全』公式サイト

1月20日19:45から、Ustream番組「敬和×日報『Newsナビ』」で、この連載をとりあげます。論説編集委員でもある、小林報道部長をお迎えして、今回の連載の狙いについて、詳しくお話をうかがいます。私一戸も出演し、学生とともに議論に参加します。皆さんよろしければご覧ください。



Live streaming video by Ustream

屠畜という営みを素直に受け止められる映画「ある精肉店のはなし」

先週末、埼玉での授業が終わった後、東中野へ移動、ポレポレ東中野で「ある精肉店のはなし」を見てきた。上京して最初に住んだのが新宿区の落合斎場の近くで、東中野駅から10分位だった。新宿駅に出るのによく使ったこの駅近くには、24時間営業のモスバーガーが山手線沿いにあり、よく夜中に勉強するのに使ったし、食事もしたし、オウム真理教の選挙運動にも遭遇した。しかし今はもう、今の東中野駅前には、当時を思わせるものはほとんど残っていなかった(山手通りを渡った先の商店街には、まだ何か残っているような気もしたけれど、当時あまり行った記憶がない)。

ある精肉店のはなし

映画は大阪府貝塚市の精肉店「肉の北出」を描いたドキュメンタリー。親の代から肉屋を営む北出兄弟とその家族の実像に迫ったものだ。北出さんは、単に肉を売っているだけではなく、自ら牛を飼育し、これを近所の屠畜場で処理して一頭まるごと食肉として売っている。この昔からの一連の営みは、市営の食肉処理場の閉鎖に伴い、途絶えることになった。最後の屠畜が行われる日の様子も、映像に収められている。

牛が屠殺されるシーンも、それらが肉になっていくシーンもすべて出てくる映画で、最初はかなり「構えて」見に行ったのだが、実際の印象は全く違っていた。「牛を割る」という行為は、昔から被差別部落の人々の仕事とされ、それ以外の人々は、「屠った動物の肉を食べている」という感覚を、どこかで隠して生きてきた。現在はYoutubeでも屠畜の現場は映像として流れていて、「流れ作業」で動物が殺されるシーンが、多数紹介されている。その多くは「流れ作業」で動物が殺されていくことへの批判的な意味合いが込められているのだが、この映画の映像を見るとあきらかに違う印象を持つ(少なくとも自分にとってはそうだった)。人間が生きていく上で避けては通れない、他の生き物の「いのちをいただく」という行為に対して、避けることなくきちんと向きあおうという気持ちにさせられた。そう思わせてくれたのは、長らく向き合ってきた屠畜や精肉店の営みについての北出家の皆さんの語り口、あるいは、その気持を見事に映像にのせることに成功したこの作品の力ということになるのだろう。

以下のインタビュー映像の中で、纐纈あや監督が「上映後、お肉を食べたくなったいうお客さんがいてうれしかった」と語っている。自分自身も、食肉を嫌悪するような気持ちは全く起こらず、むしろおいしい焼肉屋でも行きたい気分になった(内臓の処理過程を見て、ホルモン焼きも食べたくなったぐらいだ)。肉好きを自称する皆さんに、むしろ見てもらいたい映画だ。

映画は被差別部落、部落解放運動の話も、避けることなく切り込んでいる。青森生まれで、(実はなかったわけではないのだが)あまり馴染みのなかった自分にとって、部落差別問題はどのように触れていいのかもよくわからない問題なのだが、結婚において問題が起きていないのかとか、この地域の祭りで太鼓を使わないのは藩から禁じられていたという説があるなど、具体的な表現がいくつか出てきて、なんともいえないざわざわとした気持ちにさせられた。ネットでなんでもわかるこの時代に、お店・家族まるごと映画に登場するということが、どれぐらいの覚悟を要するのかは、想像するしかない。ひょっとすると、部落解放運動に長らく関わってきた北出兄弟だからこそ、その意義を受け止めて、あえて登場したということなのかもしれない。また部落差別をめぐる現状もまた、いろいろ変化しているということもあるように感じた。とはいえ、この点もまた、映像では「からっと」描いていて、むしろ部落差別の現状について、少し勉強してみようかなという気持ちにさせられた。

今後の上映日程はこちらに。東京、大阪が現在上映中で、今後名古屋、神戸、福岡、京都、札幌、広島、長野、静岡まで決まっているようだ。新潟でもシネ・ウインドでの上映を期待したいところ。

上映劇場情報 – ある精肉店のはなし

こちらに貝塚での屠畜を見学した時の様子が、ブログで紹介されていた。
貝塚市の屠場に行ってきました。

台湾の「日本語世代」の人生に迫るドキュメンタリー映画「台湾アイデンティティー」

「台湾アイデンティティー」、新潟シネ・ウインドでの上映最終日に、見てきた。冒頭のシーンは、数年前に訪れた、阿里山の風景から始まった。奮起湖駅で買った弁当の味が思い出されたが、もちろんこの映画は「旅番組」や「グルメ番組」ではなく、日本統治下をいきた「日本語世代」の人生を描いたドキュメンタリー。派手さはないが、とてもよい映画であった。

台湾アイデンティティー

ドキュメンタリー映画『台湾アイデンティティー』

1895年(明治28年)から1945年(昭和20年)までの半世紀、日本の統治下にあった台湾で日本語教育を受けた「日本語世代」といわれる老人たち。本作は舞台を台湾、ジャカルタ、そして横浜へ移しながら、市井の老人たちの人生に寄り添います。日本の敗戦で「日本人になれなかった」と言う人、台湾に帰れなかった人、シベリア抑留のおかげで二二八事件に巻き込まれずに済んだと笑う人、白色テロによって父親を奪われた人、青春の8年間を監獄で過ごさねばならなかった人、「本当の民主主義とは」を子供たちに伝え続けた人。第二次世界大戦、二二八事件、白色テロという歴史のうねりによって人生を歩み直さなくてはならなかった彼らが自らの体験を語るとき、私たちに問いかけることとはーー。

台湾は食べ物がおいしい、台湾は「親日」。若い世代を中心に、多くの日本人の台湾に関する認識はそこまでだろう。あるいは、多少歴史の知識があったとしても、台湾のことを語ると中台関係の影響もあり、イデオロギー的な要素が入りがち。興味があっても語りにくいというところもある。

しかし映画に出てくる、台湾の「日本語世代」の生の声に耳を傾けてみると、日本の文脈での「右」とか「左」という立場からは、この問題は見えてこないように思う。台湾の「日本語世代」が、日本統治のことを悪く言わないのは、その後の白色テロの時代がひどかったからともいえるし、事情はもっと複雑なのだ。監督の酒井充子さんは、インタビューでこんなことを言っている。

INTERVIEW 『台湾アイデンティティー』監督に訊く、台湾の「日本語世代」と考える日台関係  « WIRED.jp

──取材を通して日本に対する恨み言は聞かれませんでしたか?

それが言わない、だから切ないんです。「日本人になれなかった」という彼は、日本時代を批判する視線をもち合わせていないんです。「日本人になりたかった」自分のまま、ずっと戦後を生きてきました。当時の日本による教育が純粋培養的に保たれているんです。そこが本当に切ないですね。ただし、日本がよかったわけではないんです。「日本時代のほうがよかった」と、思わなければならない時代があったということです。

──日本では東日本大震災後の、台湾からの大規模な義援金などの影響もあり、台湾を「親日」とくくる見方があります。中国や韓国との関係が悪化しているいま、相対的に台湾をもち上げている印象を受けます。

日本人はわきまえてほしいです。台湾に生まれた彼らが、なぜインドネシアや日本にいるのかを、考えてほしいのです。それは日本抜きには考えられないこと。わたしは日本人に、台湾という国を中国や韓国と比較せずに見てもらいたいのです。

台湾には日本統治時代があり、あの時代を背負って生きてきた人たちが、いまも住んでいます。「何となく親日な感じがする」ではなく、日本統治時代があって、台湾のいまがあるのです。日本人にはそれを知ったうえで台湾と向き合ってほしい。そう切に願います。

映画の中で、李登輝さんがかつて語った「台湾人に生まれた悲哀」というフレーズが出てきた。結局台湾人は、いまだに自分たちの政府や国を持つことができなかったということなのだが、その「悲哀」というフレーズの意味は、この世代の「生き様」をきいてみると、非常によく分かる。台湾独立派としての立場を鮮明にする人、独立運動に当初から懐疑的だった人、残留日本兵としてインドネシア独立のために戦った人、それぞれの人生に「悲哀」が反映されていた。
一方、現実に報道されている、台湾独立の是非という「大文字言葉」の文脈では、高齢の台湾人たちのこの「気持ち」はよく見えない。さらに中国の人たちと話してみると、彼らは「一つの中国」を当然の事として考えているので、政治的な文脈を離れて、こうした台湾の人々の独自のアイデンティティーを、理解するのは難しいように感じる。

日中国交正常化以後、台湾問題に日本政府は関与しない立場にあるし、メディアでも台湾の歴史が語られることは少ない。しかしこの映画は、難しい政治的文脈を離れて、まずは激動の時代を「日本語世代」の人生を振り返り、何が起きたのか、人々はどう生きたのかを知ることを可能にしている。日本人が今後の台湾との関係(あるいは台湾の人々との付き合い方)を考える、非常に貴重なドキュメンタリー映像と言えるだろう。

酒井さんの前作「台湾人生」は、すでにDVD化されているので、今度見てみようと思う。

弘前市制作の短編映画『りんごのうかの少女』、予告編を公開

弘前のご当地アイドルりんご娘のメンバーが主演する短編映画「りんごのうかの少女」の予告編が、Facebookページで公開されていた。

短編映画『りんごのうかの少女』作品概要

「地元ならではの視点で弘前の魅力を伝えることができる映像作品を制作することで、具体的な弘前のイメージを人々に伝え、弘前PR活動の一層の促進と魅力発信に繋げる」ことを目的に弘前市役所若手職員による職員提案型の政策研究事業の一環として制作された短編映画。

映画そのものは2012年10月に「公開」されているが、現在は、弘前市広聴広報課からDVDを貸し出している。市内及び近郊に限るそうなので、新潟在住の自分が全編を見るのは難しそうだ。おそらく、少しずつ全国各地での上映を狙っているのではないかと思うが、短編映画という性格からも、苦労しているのではないかと思う。映画製作の趣旨目的からすれば、ストリーミング方式で無料でネット上映をするなどの方法をとったほうが、「弘前PR活動の一層の促進と魅力発信」にはなったように思う。

予告編を見る限りでは、「弘前PR活動の一層の促進と魅力発信」とはいいつつも、青森県の若者をとりまくリアルな現実に迫っているようで、決して「青森っていいよね!」という広報一色のドラマにはなっていない。その一方で、りんご畑の中を走る軽トラとか、岩木山とか、地元の風景を美しく切り取ることには成功しているようだ。

ひょっとすると、「PR活動や魅力発信」というよりも、地元の人達が誇りに思える弘前を映像化したということにこそ、この短編映画のもっとも重要な意義があるのかもしれない。市民が口コミで広げながら、市内各地で上映会を繰り返していくことができれば、たとえ観光PRとしてはあまり効果的ではなかったとしても、この映画を制作したかいがあったということになるのではないか。

弘前市製作 短編映画『りんごのうかの少女』

新津美術館で秋山庄太郎写真展

昨日、五泉のチューリップまつりの帰り、新津美術館に立ち寄り、秋山庄太郎の写真展を見てきた。

新津美術館の秋山庄太郎展 #niigata

写真家 秋山庄太郎 -女優 花 plus- 新潟市新津美術館

写真家 秋山庄太郎 -女優 花 plus-
平成25年4月2日(火曜)~5月12日(日曜)
午前10時~午後5時 (観覧券販売は午後4時30分まで)
観覧料 一般700円(560円)
大学・高校生500円(400円) 中学生以下無料 
( )内は20名以上の団体、SLばんえつクーポン持参の方の料金 
障がい者手帳・療育手帳をお持ちの方は無料(手帳をご提示下さい) 

秋山庄太郎は「女優ポートレート」「花」の写真家として知られ、美しいものをより美しく、秘められた「美」を引き出す審美眼と確かな撮影技術、そして包容力ゆたかな気さくな人柄で、戦後日本の写真界を牽引するとともに、写真芸術の大衆化につとめるなど、大きな足跡をのこしました。
1920(大正9)年、東京・神田に生まれた秋山は、13歳からカメラを手にし、早稲田大学商学部卒業後、陸軍に召集される直前に作品集『翳』(かげ)を自費出版、それを携えて通信兵として中国大陸を転戦。敗戦後は、東京・銀座に秋山写真工房の設立を経て、映画雑誌社写真部に勤務し、女優・原節子を初めて自宅で撮影することで頭角をあらわします。
1951年にはフリーの写真家となり、『週刊文春』『週刊現代』『週刊ポスト』など多数の雑誌の表紙撮影連載を長期にわたって担当し、「婦人科」と称されるに至ります。しかし、秋山はそれに甘んじることなく、肖像写真の体系化をめざし、とりわけ50歳代になってからは画家、文士、舞台俳優、政治家など多岐にわたる被写体にレンズを向けるようになります。またその一方で、秋山が精力的に取り組んだのは、ライフワーク「花」に代表される自主制作による写真芸術でした。
これまで当館では、1998年、2000年と、「花」を中心に据えた秋山庄太郎展を開催して参りましたが、今回は秋山写真芸術の真骨頂ともいえる人物ポートレートを中心に、若かりし頃から最晩年までの代表的作品からセレクトし、秋山写真芸術の背景や理念を探ります。

ポスターの吉永小百合の息をのむような写真に引きつけられて、会場へ。原節子から常盤貴子まで、女優たちのもっとも美しい、しかし個性の現れた写真たちが展示されていた。展示を見ていくと「婦人科」というフレーズが出てきた。女優ポートレートを撮り続ける秋山庄太郎が、そのように(おそらく軽んじられて)称されていたことを知った。もちろん被写体が女優であるという時点で、作品が目を引くことは間違いないのだが、女優の個性と向き合う秋山氏の姿勢があればこそ、これだけの個性ある作品が生まれたのだということが、写真から読み取ることができた。松本伊代、早見優など、80年代アイドルの写真は、商業誌で用いられたものも多いのか、やや凡庸な印象を受けたが、一方で、70年代以前の写真は、明らかにそれらとは異なる迫力を示していた。決して商業写真の枠内に留まらない、個性を引き出す写真が、多く生み出されたいた事がわかる。

秋山氏はすでにこの世になく、被写体の女優たち、作家たちの多くも亡くなっている。写真家と被写体の緊張感は、多くの写真に体現されているのだが、その多くは、そのときのことを誰も語り得ない状態になっている。写真に現れた若い女優たちの多くは、魅力的なみずみずしい表情を見せている。写真の中に見える、時代を超えたリアリティと、もはや誰も語り得ない過去になったという事実の間で、なんとも言えない不思議な気持ちになったのだが、「もっとも美しい表情」を撮り続けた、秋山氏の仕事は、決して軽んじて語られるべきものではないことは明らかだ。女優ポートレートを、そのような高い評価を与えられる域まで高めたということ自体が、秋山氏の功績というべきだろう。

映画「ゆめのかよいじ」栃尾でのプレミア先行上映に行ってきた

長岡市栃尾を舞台に撮影された、映画「ゆめのかよいじ」が、まもなく長岡、新潟で公開。これに先がけて2日、撮影の舞台となった栃尾でプレミア先行上映会が行われた。以前一度ブログでこの映画を紹介したのが縁で、五藤利弘監督からご招待いただいたので、15時からの一回目の試写会に参加してきた。平日の午後ということだったが、道の駅とちおに併設されたホールは満杯、開場時間に行ったら、地元の皆さんがたくさん列を作って待っていた。

映画の「ストーリー」は以下のとおり。

ストーリー|映画「ゆめのかよいじ」公式サイト

夏休みが明けた頃、東京から母親の故郷である新潟の山あいの高校に転校してきた宮沢真理(石橋杏奈)。最愛の父と死別し、また都会で傷ついた少女の真理には、昔のままの木造校舎や、雄大な自然の風景が、とても新鮮で、安らぎを感じ、心の底から魅かれていく。

ある日、その木造校舎で、見馴れない制服を着た、美しい少女の岡部梨絵(竹富聖花)と出会う。

神秘的な目でじっと真理を見つめる梨絵は、「帰ってきたの?」と言い、戸惑う真理に抱きつき、不意に口づけをしようとする。呆然と立ち尽くす真理。

気がつくと梨絵は、その場から消えていた。

梨絵は時のはざまにさまよう精霊だった。梨絵は戦後まもなく大切な人をなくして自らも命を絶ち、数十年の時を越えて現代にも残る古い木造校舎に居つく精霊。

はじめは受け入れられなかった真理だったが、次第に真理と梨絵は不思議な交流を重ねていく。魅かれあう二人・・・。

お互い大切な人を失い心が空洞化した少女2人が不思議な交流を重ね、過去から未来へ続く人々の絆、古いものの大切さを実感し、互いの苦しみを理解しながら再生へと向かっていく。

五藤監督の強いこだわりで、棚田や雁木通りなど、栃尾の風景が全面的に使われている。「ご当地もの」としては完璧な出来栄えになっている。もちろん「油揚げ」も出てくる。ヒットすれば、撮影地の巡礼が行われるだろう。映画の内容は、原作もあるわけで、おそらく栃尾でなければ撮れない内容というわけではないのだが、栃尾に何らかのゆかりのある人であれば、おなじみの栃尾の風景とともに、映画を楽しむことができるだろう。

栃尾の皆さんは上映中、「どこで撮影しているか」に興味津々で、とりわけ街中での撮影シーンでは、「○○さんのうちのところだね」といった、固有名詞までひそひそ会話にまじっていて、笑ってしまった。

転校先でなかなかなじめずにいたが、その後何かのきっかけで仲良くなっていき、地元のコミュニティにも溶けこんでいく、という展開は、自分が転校して歩いていた子供の頃のことを思い出させた。より複雑化した(ように見える)コミュニケーション環境にある、現代の若者たちにも、この部分は共感できるのかどうか。田舎にいる若者は都会に憧れ、都会につかれた若者は田舎にくるとほっとする。現代社会では、田舎から都会への向けられるまなざしのほうが、より強いように思うが、はたしてどうか。この辺は、五藤監督の描き方に共感しつつも、今の若者に響く普遍性があるのかどうかは、若い人に見てもらわないとなんともいえないように感じた。

長岡市中心部から一山超え、独立した感じの強い栃尾という町で、「時のはざまにさまよう精霊」が登場するというあたりは、ストーリーと栃尾の雰囲気がマッチしていた。栃尾の地理的な特性が、映画の中でどこまで読み取れるか。自分はすでに土地のイメージがあったので、その点はなんとも言えないが、過去と現在が木造校舎は自然につながっていた。

撮影された木造校舎は、現在の栃尾高校ではないのだが、この映画に出てくる高校生活は、栃尾高校生にどのように映るのかも知りたいように思う。以前大学に、栃尾高校に別の町から通学していたという学生がいたが、彼はバス通学に時間がかかったせいか、栃尾のことをほとんど知らなくて驚いた。地元から通っている生徒の生活ぶりはまた違うだろうが、現代の高校生に対して、栃尾という街がどのように見えているのかは、大変興味があるところ。

上映会の後には、舞台挨拶も行われた。五藤監督、主演の石橋杏奈さんと竹富聖花さんの二人、主題歌の笹川美和さんが登壇した。撮影からだいぶ時間がたったせいか、主演のお二人は、かなり印象が変わっていた。笹川美和さんは、できあがった映画をすべて見てから、主題歌「プリズム」を作ったといっていた。笹川さんは新発田市(旧紫雲寺町)出身で、敬和学園高校の卒業生でもある。

舞台挨拶の後、登壇した4人が客席側に降り、観客とともに記念撮影をすることになった。各社のカメラで撮影されていて、どこを向いたらいいのかよくわからなかったのだが、実は自分のすぐ後ろに出演者の皆さんがいたようで、今朝の新潟日報で、眼鏡に手をやっている自分の姿がはっきり写っていた。地元のおじいさん・おばあさんと映るべきシーンで、なんか変にうつりこんですみません、という感じだ。

栃尾で先行上映会|新潟日報netpark

今後の上映スケジュールは、長岡と新潟だけが決まっている。T・ジョイ長岡は17日、T・ジョイ新潟万代では24日から公開の予定。新潟県民にまずは公開ということなので、特に栃尾に行ったことがある人は、見に行ってみるといいのではないかと思う。

映画「ゆめのかよいじ」公式サイト 石橋杏奈、竹富聖花、白石隼也、浅野かや

ちなみに2010年10月に栃尾で行った、新潟フォトウォークの写真も、以下にはりつけておこう。映画に出てくる風景も、たくさん撮影したので、非常に感慨深かった。

『 戦火に消えた我が樺太よ 』

『 戦火に消えた我が樺太よ 』 ー 忘れない心のふるさと ー』新潟展に行ってきた

週末、新潟県民会館で開催されていた全国樺太連盟の移動展『戦火に消えた我が樺太よ ー 忘れない心のふるさと ー』に行ってきた。

樺連ニュース : 樺太関係資料館 新潟移動展

『 戦火に消えた我が樺太よ 』

『 戦火に消えた我が樺太よ 』

稚内に6年住み、ユジノサハリンスクも一度訪問したことがある自分としては、正直北方領土よりも、樺太・サハリンの歴史やこれからに、より関心がある。「樺太」の領有権問題を蒸し返そうという人は、現在そう多くはないし、日本政府も積極的な主張をしているわけではない。正直遠く離れた新潟人の関心は、そんなに高くはないようで、来場者も多くはなかった。稚内では、樺太からの引き揚げの話を耳にすることもあり、対露感情が悪いのもやむをえないと感じる一方で、市役所にはサハリン課やユジノサハリンスク事務所があり、「日ロ友好最先端都市」をスローガンに、官民挙げてサハリンに活路を求めている状況もある。正直国境に近い稚内では、領土問題として「樺太」を扱おうという空気は、ほとんどなかったように思う。

さて、展示はサハリンを探検した間宮林蔵の頃の内容から、ウィルタ、ギリヤークなどの少数民族の様子、樺太の開発の歴史、人々の暮らしと続いて、ソ連侵攻の様子までを紹介していた。会場内には、全国樺太連盟の関係者の方がいらっしゃって、いろいろ説明して下さった。説明される方が、日ソ中立条約を破棄して攻め込んできたソ連の行為を非難するとともに、ふるさと樺太の返還に向けて世論を喚起したいということ、しかし日本政府やメディアもこの点にほとんど触れてくれないことなどをお話しされていた。国際法の問題としても、また現在の国際情勢に照らしても、「樺太の帰属問題」が政治課題として浮上してくる可能性は低いとは思う。が、1945年までの樺太の様子を見た後で、樺太で生まれたという高齢の説明員の方の、郷土を取り戻したいというお気持ちを伺うと、そんな野暮な現実論を話そうという気持ちにはならなかった。

撮影禁止ではなかったので、印象に残ったものを何枚か撮ってきた。こちらは漁船で引き上げてきた船が、浜頓別についたところ。

『 戦火に消えた我が樺太よ 』

ソ連の対日参戦後になって、樺太庁は本土への民間人の緊急疎開を決定したが、この輸送は終戦後の8月23日、ソ連によって禁止される。その後、引き揚げが始まる46年12月までの間に、漁船などで密航し、北海道を目指した人も多かったが、ソ連軍に見つかって沈没したものも多かったという。決死の覚悟で密航した人々のうち、なんとか浜頓別までたどり着いた人たちの写真ということになる。緊急疎開で小樽方面に移動していた船が、小平などの沖合で攻撃されて沈没した話は知っていたが、漁船で帰ってこようとした人たちがいたのは知らなかった。ちなみに攻撃を受けた緊急疎開の船のうち、一隻が一度稚内に立ち寄っていたことを、今回初めて知った。そこで船を降りた人たちは運良く助かったし、逆に稚内から乗り込んだ数名は、攻撃を受けることになったということになる。

「ソ連軍の大泊侵攻」というタイトル。たしかこの写真、ユジノサハリンスクの博物館(旧樺太庁博物館)にも展示されていたと思う。「敗走する日本人たち」というようなタイトルだったかと。

『 戦火に消えた我が樺太よ 』

旧樺太庁博物館を2005年に撮影したもの。この状態で、現在も残っている(はず)。
Japanese Styled Building in Russia

樺太での戦いは、8月9日以降に行われており、むしろ8月15日以降に、民間人の生活している地域への攻撃が行われ、多くの犠牲者を出している。樺太や千島では、8月15日以降も戦闘が行われたが、ここでの戦いで苦戦したソ連が、北海道侵攻をあきらめたという説もある。知れば知るほど、ソ連参戦の不条理と、その気配に気づけなかった日本の情報収集能力の限界を感じる。

2010年に復刻上映された、映画『樺太1945年夏 氷雪の門』の予告編。