タグ別アーカイブ: 敬和

Flickr

学生に使ってみるよう指示したこともあって、先週あたりから各種の「Web 2.0」的サービスを使ってみている。

テクノラティ(使っている間にGoogleからもブログ検索がリリースされた)、del.icio.usにもユーザ登録をして使ってみた。もともと普段はGooのRssリーダを使っているので、これの登録状況を読み込みたいのだが、どうもうまくいかない(件数が多いからか)。

今のところ一番はまっているのは、Flickr.だ。すでに有料サービスを申し込んで、過去の写真を含めて500枚ほど放り込んだ。気に入ったのは、各種のツールが充実していること。このブログの右側に表示しているのもその一つ。登録データを組み合わせてフラッシュで順々にスライドショーで小さく表示させている。まだまだ過去にさかのぼれば、アップできるデータは多数ある。これまでHDに保存しておいたものを、ネットにあげるだけではあるが、タグをつけておけば、後々そこからたどれる。タグを一つ一つ付けるのはめんどうだと思ったけど、意外と簡単だ。

敬和でウェブの見直しという話が出ている。何年か前に稚内でもたどった道。誰かが人柱にならなければできない話だ。新任の私はしばし様子を見たいと思っている。

上のようなサービスを見れば見るほど、企業なり大学が、自己完結的にウェブをくみ上げていくときの視点を、見直す必要があると感じる。もちろん、使いやすさや見栄えがいいに越したことはないが、作った側が想定していないルート、口コミで情報が広がっていくという要素を見逃すべきではないのだろう。どんなに見栄えがよくても、使い勝手が良くても、悪い評判は口コミで広がってしまう。逆にいい評判はじわじわと、地道な努力を続けている人たちを救うのかもしれない。たとえば、私が新潟にきてから街の情報、たとえば、上のflickr関連の情報、その多くは、既存の公式のルートからではなく、ミクシーの関連コミュから得られたものだ。準メジャー情報の集積度で、日本語では、ミクシーにかなうものはないというのが率直な感想だ。

こうした情報の流れは、マスの情報ソースがきっかけになっているケースも少なくないのだが、「それがすべて」であるかのような代理店の人たちの発言は、大抵眉唾であろう。特に中小企業、地方私立大学の広告は、ほとんどが金をどぶに捨てているようなものであろう。マスで完結せず、バイラルに情報を戻せるようなものは別だけど。「オカムラ食品の味っ子漬」クラスなら、今でも青森でバイラルに流れを戻せるかなあ。

安倍総理メールマガジン創刊、首相官邸WebサイトではRSS配信開始

リンク: 安倍総理メールマガジン創刊、首相官邸WebサイトではRSS配信開始.

自宅のBフレッツが開通。今晩ようやく「ネット難民」生活から解放された。

今日は、以前から情報科目を教えている、非常勤の先生とお話をさせていただいた。意見の一致があった点なかった点、いろいろあったと思うが、敬和のIT、ネットワークをめぐる状況について、当初の分析はおおよそ外れていないということはよくわかった。

首相官邸までもRSSをつかっているのであるから、広報に熱心であるべき地方私大がRSSに手を付けないというわけにはいかないだろう。まあ、順々に手を付けていくしかないかな。

新潟に引っ越します

9月30日付で、6年半を過ごした稚内北星学園大学を退職し、敬和学園大学人文学部に移籍することとなった。これに伴い、半年間の東京生活も今週で終了、新潟に引っ越すことになる。6年間、稚内で多くの方々のお世話になったが、こうして遠隔地からひっそりと「稚内」を離れることとなる。お一人お一人にゆっくりご挨拶することができず、なんとも心苦しい。が、これからも稚内のために仕事をすることにはなるだろう。またいつか。

一度東京に戻ってから再度地方に出るというのは、なかなか複雑な気分だ。田舎生まれ田舎育ちではあるが、実は一番長い期間を過ごした場所は東京だし、今回半年間を過ごした新川という街も、今までほとんど縁がなかったが、非常にいいところだった。結構去りがたい思いがあるというのが正直なところ。東京でもまた、この半年でいろいろな方にお世話になった。

新川を中心に東京で見つけた新しいお店や場所については、近いうちにまとめておきたい。東京駅から近いので、新幹線に乗る前にいくこともできそうだ。

新潟、新発田でも、新しい環境になじめるよう、努力していきたい。ここでもまた、新しい人々のお世話になることだろう。どうぞよろしく。

デジタル音楽の行く末

敬和の学生の皆さんのブログがなかなか動き出さないが、積極的に動き出した「演習日記」にコメント。

演習日記: 自作曲の有料配信より。

音楽的素養がまったくない私には、想像するしかないのだが。

おそらく1DL50円の「印税」でも、やってみようという人はいるだろう。路上演奏よりも手間はかからないし、宣伝効果もある。といってみたものの、「宣伝効果」自体は、ミュージックマーケットの知名度いかんだということになる。

音楽のコンテンツ配信と携帯プレーヤの普及は、個々のアーティストを「ブランド化」して売り出すやり方を、少しずつ壊していっているように見える。たしかに、放送番組とのタイアップやめざましテレビ的なマッチポンプ型宣伝手法は以前健在で、それらは音楽コンテンツを選別する能力ないし時間のない人たちに対して、当たらずとも遠からずのメジャーコンテンツへの誘導を行っている。

ただし、有体物のブツ、つまりたとえばCDやDVDといったもののありがたみは、どんどん低下している。つまりCDなんか買わなくても、話題の一曲をDLしてしまえば済むわけだ。多くの人はそれで別にかまわないだろう。音楽ファイルの無料交換によって、音楽業界が受ける損害は、CD一枚の価格相当ではなく、一曲DL分の対価相当ということになってくる。

CDを通した接近方法では、ファンに対して近寄りがたい神聖さを感じさせることはもはや難しくなった。一曲のデジタルデータという意味では、もはやミュージックマーケットの無名の一曲とメジャー楽曲の間には、もはや原理的には差異がない。

著作権法のテキストをめくると、レコードが登場した頃、演奏家たちが実演の機会を奪われるという懸念を示していたという話が出てくる。レコードに固定された内容で人々が満足してしまえば、ライブのありがたみなんて誰も感じてくれない。当時そう思われていたようだ。デジタル化は逆に、ライブのありがたみを復権させるような気がしないでもない。ライブじゃないものは、限りなくただに近づいていき、生のものだけにそれなりの対価が支払われる。

大学の授業は、もともと生のものはありがたみをあんまり感じてもらえていなかったのだが、果たして復権可能なのだろうか。

新発田の学生達

4月から新潟県新発田市にある、敬和学園大学で非常勤講師をやることになった。
東京駅から新潟まで、新幹線で2時間ちょっと。敬和学園までは、そこから電車で30分(プラス駅から学バス)ほどかかる。稚内から札幌まで、5時間の旅を何度もしていた立場から言うと、たいしたことはないのだが、まあそれなりに往復移動で体力を吸い取られそうだ。
今回は車で移動したのだが、関越トンネルを抜けると、本当に「雪国」になった。
今週はガイダンスで、ゼミ所属の学生たちと履修相談をした。驚いたことに、学生たちのPC使用率は異様に低い。学内施設は45台のPCだけで、しかもそれらもあまり使われている形跡がない。学生に聞いてみると、重たいのでノートPCはあまり持ち歩かないそうだ。教員も学生もPC依存症にどっぷりつかっているWAKHOKを当たり前だと思っていたけれども、世間の常識っていうのはそんなもんなのか。。。
敬和はキリスト教主義に基づいて、しっかりした教養教育を行うというコンセプトの学校だ。実学とか即戦力とか、そういう発想には、少なくとも理念的には立っていない。ゆるぎない教養人であれば、卒業後仕事に必要な「スキル」はすぐに習得できる。そういう前提に立っているように見える。
そう、WAKHOKの考え方と全く正反対だ。WAKHOKは、形式的な教養が学生をスポイルしてしまうという考え方だと思う。常に実践的かつ先進的であることを志向している。
いずれにせよ、そうした「哲学」は、おおむね大学サイドの都合によって作り上げられている面があり、必ずしも学生の将来にどのように作用しているか、あるいは少なくとも、学生にどのように受け止められているかを、きちんと評価した上で作り上げられているわけではないように思う。ネパールやバングラディシュの学校と話していると、彼らがいかに市場競争力と教育の質の向上に取り組んでいるかがよくわかる。彼らは、学生の需要にどのように答えるべきかという出発点に立っている。実際には学生に対する管理は結構徹底していて、別に学生にこびへつらうわけではないのだけれど、マーケティング戦略は非常によく考えられていて、いい意味での「顧客満足」が追求されている。日本の大学はその点、供給サイドの都合でやり方が決まっていて、あまり市場志向的ではない。大学全入時代の激しい競争を勝ち抜くために、というお題目はよく唱えられていて、そのためにみんな努力しなければという掛け声はあるのだけれど、結局どんな手を繰り出すかは、学校や構成員の都合(プラス財力)が非常に大きな制約条件としてのさばってしまっているので、実際には中途半端な改革にとどまってしまっていることが多い。
敬和の学生たちは、このカリキュラムで学んで、どんな将来展望を持つのかが非常に不明瞭であるように思えた。WAKHOKの学生たちにもその傾向はあるが、それはITの領域で自信を持てないからに過ぎず、実はWAKHOKでの「そこそこ」は世の中では「結構すごい」ぐらいにはなるんだという気持ちを、持てばいいだけなのであろう。そうした自信創出の仕掛けが、WAKHOKには欠けている。そうした点を補うのが、敬和学園のいうような「人間教育」「教養教育」なのかどうか、それはよくわからないが、両者の「哲学」は何か相互補完的であるように感じている。敬和の学生は、大学の掲げる旗印の意味を、おそらくほとんど理解していないだろう。少なくとも学びのプロセスの前に掲げられるものとしては、ちょっと難しすぎるかな。卒業した後、じわじわ効いてくるのかもしれない。
留学生たちは、もっとはっきりした専門性、あるいは世の中で通用する「実学」を求めているように感じた。「日本の大学」を卒業しましたというだけではほとんど評価されない、という彼らの意見は、もっともだと思った。また新しい宿題を抱えたような気分になった。
新潟なのに、帰りの新幹線で、富山のますずしを食べた。