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1964年の新聞の存在感を感じさせる「地震のなかの新潟日報」

新潟市立中央図書館で発見した、1965年発行の本「地震のなかの新潟日報」。Amazonでは古書としても購入できない。最初のところを少しだけ読んでみた。

目次
序文
– 新聞はこうして続けられた
– 原始との戦いー震災当日の本社
– 本社の被害は?ー同四支社
– 読者への使命感ー震災二日目
– 紙面不足に泣くー震災三日目
– 製作、ほぼ軌道へー同四日目
– 県紙の主導性ー二十日以後の活動
– 孤立と戦うー下越八支局の動き
– 焦燥に暮れる日々ー同上、中越十二支局
– 評価と教訓
編集後記

1964年(昭和39年)6月16日に発生した新潟地震の際に、新潟日報がどのように新聞を発行したかを淡々と報告している。この地震では、新潟市内は液状化で大きな被害が発生、建物の多くも倒壊している。信濃川沿いの集合住宅が倒れている様子、できたばかりの昭和大橋が崩れている様子が、よく紹介される。また、昭和石油新潟製油所から発生した火災で、黒煙がもうもうとまいあがる様子もまたよく知られている。火災の黒煙が市内全域を多い、煙と油のにおいにつつまれたという。

新潟日報では、「電力、電話、交通の途絶、活字のウマは倒れ、ガス、水道さえ出ない」という状況の中で、被災者に最新のニュースを届けるべく奮闘したという。地震発生直後、正面玄関に集まった社員を前にして、社長がPRカーの上から「いかなる困難をも克服して新聞を発行すべきであり、それが新聞に課せられた最高の使命」と述べた後、中野取締役が「天災地変に際してこそ新聞発行の意義は重大である。人心安定、秩序維持の役割りを果たすものは新聞をおいてないではないか。」と呼びかけている。

現在においても新聞社の人々は「人心安定、秩序維持の役割りを果たすものは新聞をおいてない」と思っているかもしれないが、実際のところ、今は「人身安定、秩序維持」に寄与するものは他にもたくさんあり、「人心安定」にはまずは新聞だと思っている人は多くないだろう。もちろん、「人身安定、秩序維持」を不安定にする情報も多数あるので、マスメディアがきちんと検証した情報を送り出すことが大事ではある。新潟地震でも、さまざまな流言飛語が飛び交っていたところ、それを新聞が打ち消したということはあるようだ。その意味では今も昔も、マスメディアが果たすべき役割りは本質的には変わらない。ただ当時の新潟日報の人々が負っていた責任というのは、今とは比べ物にならないほど、大きなものだったといってよいだろう。当時の新聞の社会的存在感の大きさを感じさせるフレーズであった。

当日のラジオがどのように実況していたか、録音した人がアップしているが、ここでは、以下の毎日映画社が掲載しているニュース映像を紹介しておく。

6月16日午後1時2分、新潟沖を中心とするマグニチュード7.5の大地震が発生。液状化現象で県営アパートや昭和大橋が壊れ、昭和石油新潟製油所のタンクが爆発し、燃え続けるなど、壊滅的な被害を与えた。※ナレーションでは「マグニチュード(M)7.7」とありますが、その後「M7.5」と発表されました。

最北に暮らす若者が映像で語る地域:観光地稚内の日常は、「内地」の人々に何を伝えるか

私の前任校稚内北星学園大学の学生たちが、「私の暮らすまち、稚内。」を短い映像作品にまとめたものが、先月開催されたわっかない白夜映画祭で上映されています。また、このとき上映された作品がYoutubeに公開されています。北海道稚内市は、日本最北端の街です。最北端に暮らす若者のリアルな思いが、映像に現れているように思います。

第1回白夜祭:日本一短い夏至の夜を楽しんで…稚内 – 毎日新聞

私の暮らすまち、稚内。 – YouTube

いくつかの作品を見て、私にとっては、稚内に暮らしていた時の感覚を呼び起こすような懐かしさがあるわけですが、本州(北海道の人たちは、今でも「内地」という言葉を使います)に戻ってきてからの自分の感覚で考えると、「遠い」作品です。この「遠い」という感覚はどういうことなのか、考えてみました。

中央のマスメディアが伝える情報は、地方に行けば行くほど、遠い「東京からの情報」になります。その意味で言うと、稚内で見る「東京からの情報」は、相当に「遠い」です。この「遠さ」を補うのが「地方紙」などの地域メディアですが、これもカバーするエリアが広くなると、遠い「県庁所在地からの情報」を流す存在になります。

北海道の場合には、道庁のある札幌の存在感が大きく、札幌近郊とそれ以外のギャップが大きいです。大学教員として6年間暮らした稚内では、東京ははるか遠くにあり、札幌も結構遠くにある(たしか360キロ離れている)都会です。どちらのニュースも遠い世界の出来事のように感じます(もちろん陸続きの札幌は相対的には近いのですが)。

北海道新聞はブロック紙の一角を占める大手の地方紙ですが、稚内は北海道の中でもさらに遠く離れた「地方」ということになります。地方の中の地方である稚内には、全国紙の取材体制は十分になく、テレビ局もNHKの報道室があるだけでした。「地方の地方」たる地域に関する情報は、札幌や東京のメディアに取材されて伝わっていくことはほとんどなく、稚内や宗谷地域限定の地元紙の中だけで共有されることが多いです。人々のメディア空間は、インターネット時代になって、変わった部分もあるのですが、この「遠さ」を背負ったままであるように感じることが多かったように思います。

一方、都会の人が稚内のことを知らないわけではありません。都会の人から見れば、稚内は「辺境」ですが、同時に宗谷岬があり、カニがあり、近くに利尻・礼文のある「さいはての街」として知られています。いいかえれば観光地として、稚内はある意味「エッジが立った」状態にあり、この角度での情報だけが、いわば「つまみ食い」され、多く流通しています。

結果的に稚内という街は、観光地としてのエッジの立った部分だけが「全国区」となっていますが、この街で暮らす人達のことは、ほとんど知られていません。観光地である地方都市というのは、大なり小なりそうだと思いますが、稚内を始めとする北海道の地方都市の場合には、北海道特有の複雑なメディア構造の下で、この傾向がさらに強まります。結果的には、稚内の人たちも、自分たちのことを中央メディアを通して共有する機会が、非常に乏しくなります。

最北の大学で映像制作の授業が始まったのは、私が赴任した2000年ですが、それから14年、この授業では稚内や宗谷をさまざまな角度から伝え続けています。最初はYoutubのような動画共有サイトはありませんでしたので、当初の作品はどこかにお蔵入りしているようですが、ここ数年の作品はYoutubeにアーカイブされています。映像制作を指導している教員も、私が教えていた時代に学生であったNPO法人のメンバーが担当するようになりました。

稚内北星で制作された動画は、数々の映像賞をとるなど、高い評価をえていますが、地元と都会、それぞれの世間の関心の間隙、谷間に沈みがちな「稚内ローカル」だけを狙った作品ではなく、「内地」の人の関心を意識して作られていたように思います。以下はいくつもの賞を受賞した作品「待合室の片隅で」。建て替えになった稚内駅で営業していた立ち食いそば屋を巡るストーリーで、最北を目指して旅をした人々の心をくすぐりつつ、題材は地元の人々の暮らしです。決して稚内人の関心だけに向けて作られているわけではないと、私は感じています。

今回の作品は、うってかわって非常に「稚内ローカル」な作品です。地元出身の学生たちが、自分たちの思い入れのある場所について、そのストーリーを短い映像で紹介しています。南小学校や南中学校への思いは、稚内人ではない人には「遠い」ものですが、現地で6年暮らした私には懐かしくもあります。観光地ブランドの稚内ではなく、日常の稚内とそこに暮らす人々の思いは、観光地として稚内に来たことがある人や、全く縁のなかった人たちに、何らかの形で「最北」の一断面を伝え、心のなかに何かを残すことができるのか。この動画への反響に、注目したいと思っています。

(Yahoo!ニュース個人より転載)

「シェア」はその価値がわかりにくくもろい存在:「プライバシー」との両立

今学期の最後、いくつかの授業で「シェアとプライバシーの両立」について、自分の考えを書いてもらった。こんな内容で出題し、解説もした上で、少し時間をかけて回答してもらった。

TwitterやFacebookなどのソーシャルメディアは、多くの情報が公開で共有、シェアされることで、メディアとしてのパワーを拡大してきました。「アラブの春」のような政治運動でも、不正を暴く「Wikileaks」のような仕組みでも、こうした「シェア」の力が働いています。しかしその一方で、止められない拡散力は、Twitterでの「炎上」や「リベンジポルノ」などの副作用をもたらし、SnapchatやLINEのような、はじめから限定されたサービスにも、支持が集まり始めています。これから人々は、プライバシーを守りながら「シェア」を続けていくのかどうか。「シェア」のある社会を続けていくにはどうしたらいいのか。皆さんの考えを書いてください。

(Wikileaksの拡散にはマスメディアの存在も関わっているので、「シェア」の力と言い切っていいのかは、実は若干迷ったところもあるのだが、それはさておき。)

学生にとって、SNSとプライバシーの問題は自分の身近に起きうる問題で、「炎上」も「リベンジポルノ」も、すぐそこに転がっていそうな話。なのでこちらについてはだいたい回答があり、気をつけなければとか、キャリアがもっと規制すべきではとか、そういう意見が必ず書いてある。

かたや、ソーシャルメディアの「シェア」がもたらす積極的意義については、さらっと触れている程度で、実感を持って語られているものは、ほとんど見当たらない。やはりあんまり実感がないのだろう。

普段はたわいもない日常が語られているだけに見えても、必要な情報が瞬時に人づてにやってくる、というソーシャルメディアの意義は、なかなかわかってもらえない。受け取った情報を「評価」し、それをさらに「シェア」するというのは、社会的に意義はあるのだが、どちらかというと面倒くさい作業だ。答えだけ欲しがっている人には、面倒なことなのだ。せいぜい、食べログや価格コムなど、自分の生活上の利益に直結したところでしか、この感覚は動かないということなのかもしれない。

いまや「ソーシャルは危険だ」話がおおはやり。かくいう自分も、その手の原稿依頼や講演依頼をいくつも受け取っている。もちろん「炎上」などをめぐって、事態の深刻さは増しており、これはこれで必要な仕事だとは認識している。問題はこの論調をどこまで強めていくか。これは誰にもコントロール出来ない。特に「私は使ったことがない」という人たちは、聞きかじって理解した範囲の知識で危険性を語るので、当然「シェア」の積極的な意義とのバランスは意識されない(なくなっても自分たちにはなんの悪影響もない、と思っている)。かたやユーザの側も、「俺のTLには社会的に有用な情報なんてない」と自嘲することもあり、「シェア」の意義はあまり意識されない。

ソーシャル危険論が、リテラシー教育によって賢いネットユーザを作ることと放棄させ、SNSを地下に潜らせるだけの結果になれば、いつのまにか「ソーシャルメディアは愚民の使うもの」という評価が確立し、「シェア」の可能性はついえて、「ソーシャルメディアは死んだ」ということになるのだろうか。

SnapchatやLINEの流行は、その点新しい動きの現れといえなくもない。プライベートなメッセージのやりとりと、FacebookやTwitterなど、よりオープンな場所での情報のシェアが区別され、これがより人間の身体性に近いものとして確立していけば、案外技術がこの「棲み分け」問題をうまく解決してくれるのかもしれない。

インフルエンサーの推薦は無党派層を動かせるか?:湯浅誠さんの推薦候補者名発表から

昨日湯浅誠さんが、Facebook上で、秋田の民主党候補である松浦大悟氏を応援しにいったというポストとともに。自ら推薦する候補者名を発表した。

Street Speech of Election of The Presidents of Democratic Party of Japan
Photo by Dick Johnson.

湯浅 誠

なお、私は参院選で、以下の方たちの推薦人(的なもの)になっています。
ご要請をいただき、かつ、国会で力を発揮してもらいたいと私が思う人たち。

(五十音順)
大河原雅子(東京)(無所属)
鴨ももよ(比例)(社民)
鈴木寛(東京)(民主)
田口まゆ(全国比例)(緑の党)
松浦大悟(秋田)(民主)

これに対しては多少批判的なコメントもついていたようで、その後非常に長いコメントで、自らが個人的に推薦する候補者を表明した理由を述べている(以下は一部抜粋)。

自民党圧勝確実と言われる中、私はそれが望ましいとは思わないので、1人区でも勝てる可能性のある候補がいるなら応援したい。
自分が動いても、しょせん数票とか10票とかにしかならないかもしれないし、1票にもならないかもしれないが、「競ってる」勝負なら、もしかしたら意味があるかもしれない。
「最善を求めつつ、最悪を回避する」ことが重要と思うから。
それが自殺対策や社会的包摂をやってきた松浦大悟なら、なおさら。

政治的中立とは、すべての候補者を平等に評価します、ということ。
政治総体に対して批判的立場を堅持とは、「どうせ誰がやったってダメだよ」とか言いながら棄権する(もしくは白票)ということ。
でもそれは、私がやらなくてもマスメディアがやっているし、多くの有権者がやっている。
私も、前回の衆院選までは、誰かの推薦人になることはすべてお断りしてきた。
でも前回から、個人単位で推薦人を受けることにした。
間近で見てきて、誰が、何を、どういう思いでやっているのかを多少なりとも知ってしまったのに、頼んできた相手に「あなたを他候補と平等にしか評価できません」とは言えなかったから。
そして、いま私は、誰かを応援することによって私が受けるリスクよりも、誰も応援しないことによるリスクのほうが高く、そこに一有権者としての責任を感じているから。

ご本人は、「自分が動いても、しょせん数票とか10票とかにしかならないかもしれないし、1票にもならないかもしれない」と謙遜しているが、都市ならばもっと大きな動きがあるのではないか。秋田での影響力は未知数だが。

公職選挙法の改正の中で、主に懸念されていたのは、「なりすまし」や「誹謗中傷」の横行であったと思うが、これまでのところ、目に見えて大きな影響は見えていない。また、所属する政党の財力によって、露出が左右されてることも懸念され、ネット広告についてはそれなりの規制がなされている。しかしネット選挙運動解禁で大きく変わるものの一つは、実は湯浅さんのような発言力のある個人、インフルエンサーの影響力なのではないか。湯浅さんの発言への反響を見ると、どうもそんな気がしてきた。

実はこの点、6/1の情報ネットワーク法学会特別講演会で、韓国中央選挙管理委員会選挙研修院教授高選圭さんから指摘があった。韓国でも、「Power Twitterian」と呼ばれる「インフルエンサー」の動きが注目され、候補者がこうした人々を訪問するといった動きが見られているという。

特別講演会「インターネット選挙運動解禁で選挙はどう変わる」

湯浅さんはおそらく「リベラル」を自認する人たちから比較的支持されているはずで、そのなかにも「無党派層」は多数いるはず。こうした人達が、たとえば秋田の選挙区で、どれぐらい動くのか。新潟で様子を見ている限りでは、地方の選挙区がこれで動いていくのは容易ではなさそうだが、たとえば秋田県でも秋田市その他の都市部では、一定程度、湯浅さんを知っているリベラル層は存在しているはずなので、この辺の票を掘り起こす効果があるかもしれない。

この講演会で、情報セキュリティ大学院大学の湯淺墾道先生が指摘していたのは、地方議会議員選挙のケース。地方議会議員選挙では、次点との得票数の差が1桁ということはよくあるそう。となると、インフルエンサーが誰を支持するかというのが、実は非常に大きな影響を持つ可能性もある。参院選は比較的選挙区も大きいので、一人の発言で結果が大きく左右されることはないのかもしれないが、湯浅さんの発言の反響を見ていると、そうとも言い切れないような気がしてきた。となると、地方議員の選挙だと、さらに振れ幅は大きくなるのかもしれない。

このほか厳密な意味では個人ではないのだが、楽天の三木谷浩史さんが、「新経連」という立場で、8人の候補の推薦を発表している。

三木谷浩史楽天会長や、北村晴男弁護士ら著名人も参院選の応援演説

「NAVER まとめ」の月間訪問者数、Twitterを抜く(ニールセン調べ)


ニールセンが2012年12月のインターネット視聴率データNielsen NetViewを発表、Naverまとめの1,300万人を突破し、1年間で2.3倍の伸びを見せていると発表している。

「NAVER まとめ」の月間訪問者数が1,300万人を突破 | ニュースリリース | ニールセン株式会社

2011年12月から2012年12月にかけての訪問者数の増加幅で見ると、「NAVER まとめ」は741万人増で昨今話題のFacebookを大きく上回り2012年に最も訪問者数を伸ばしたサイトとなりました。また、訪問者数自体もTwitterをわずかに上回る規模にまで拡大しています。

タイトルに書いたとおり、一番衝撃的なのは、月間の訪問者数が、Twitterを上回ったということ。1年間の増加幅では、Facebookを上回っているとも発表されている。

 

ただ、ユーザの「常駐」場所としてのNaverまとめが、Twitterを上回っているというわけではなく、以下のような解説がなされている。

「NAVER まとめ(matome.naver.com)」の訪問者に対する割合で見ると、直前に閲覧していたドメインでは yahoo.co.jp が46%、google.co.jp が28%、yahoo.co.jp、google.co.jpの2ドメインを合わせると71%となっており、検索から「NAVER まとめ」に訪れる人が大半を占めていることが分かります(「yahoo.co.jp」の99%が「search.yahoo.co.jp」)。

つまり、YahooやGoogleで検索した結果として、Naverまとめのページが表示され、そこを経由して、個別のページに飛んでいくという経路が確立されつつあるということのようだ。たしかに自分自身の体験としても、検索した結果として、Naverまとめのページを見ることは多い。かつて人力でディレクトリを作って一斉を風靡したYahooが、Google検索に敗れたが、検索と個別ページの間に、人力によるまとめページが入り込んでくるというのは、非常に興味深い現象だ。ニールセンの西村友博さんは「他サイトのコンテンツを束ねるだけでなく利用者がより自らの表現力を活かせるようにレイアウト機能の充実や画像やニュース提供サイトとの連携も強化」したということが、まとめの質を向上させる役割を果たしたという見方をしている。

最近は事件事故に関するニュースについても、非常に素早くまとめページが作られており、その中には、マスメディアであまり大きく報道されていないが、Twitterその他でユーザが「速報」したものをまとめたページも増えている。当然そうなれば、発信者やプラットフォームとならんで、「まとめ人」のまとめたことによる責任にも、ますます注目が集まってくるだろう。

利用者の世代としては、20~40代、13~15才で利用率が高いという分析も出ている。ハイティーンの比率が低いというのはよく理由がわからないが、中学生のリテラシーでは、公式の情報か区別せず、まとめページをクリックするという傾向があり、その意識が高校生になるとくぁわるということなのだろうか?20−40代では、30代以上が相対的にやや高いように見える。30代以上になると、「うそは自分で見抜く」という前提で、ユーザによるまとめ情報にアクセスするというのは、深読みし過ぎか。逆に50代以上になると、「非公式まとめ」への抵抗が強くなるせいか、数字が下がっている。世代別の「Naverまとめ」の利用率の背景については、もう少し考えてみる価値がありそうだ。

「図説 日本のメディア」買ってきました。問題提起する帯。 #keiwaim

藤竹暁『図説 日本のメディア』 (NHKブックス No.1196)

以前使い勝手の良いデータブックとして重宝していた「図説 日本のマスメディア」が先月大改訂、「マス」がとれて「日本のメディア」として発売になっていた。

「日本のマスメディア」のアマゾンのレビューはなかなか辛口で、「古い世代が古い視点でマスメディアについてまとめたもの」という趣旨のことが書かれている。その趣旨はわからなくはないが、個人的には「マスメディア」に関する本と捉えており、「Web 2.0」以降のことを知るための本としては期待していなかったので、あまり気にはしていなかった。ともあれ、「日本のメディア」として生まれ変わったこの本。どんな仕上がりになっているか。近く購入してみようと思う。

【追記】今朝(10月8日)、ジュンク堂に行って本を買ってきた。帯を見る限り、タイトルは、自分が予想した通りの理由で、変更したようだ。

「図説 日本のメディア」買ってきました。問題提起する帯。 #keiwaim

BSN

アメカゴオフ会「BSN見学会」に参加してきた

新潟日報のSNS「アメカゴ」の企画で、新潟放送BSNの見学会に行ってきた。今週月曜からちょうど学生と佐渡合宿に出かけていて、その最中に人数確認のご連絡を頂いたので、2名ほど学生からも希望が出て、3人での参加となった。アメカゴ、BSNの関係者の皆さん、どうもありがとうございました。アメカゴ5周年の記念手ぬぐいをいただいた。

会議室でのブリーフィングのあと、テレビサブ、スタジオ、ラジオサブ、レコード室等を一同で見学した。ラジオのスタジオには以前番組出演時におじゃましたことがある(今日はピンチヒッターで、山田かおりさんがしゃべっていた)のだが、テレビは自分も初めて。お台場のフジテレビスタジオ同様、時間帯の異なる複数の番組のセットが一つのスタジオの中に置かれていた。スタジオのセットに座っての記念撮影もOKをいただいたので、それっぽい写真を3人で撮ってみた。

BSN

BSN

BSN

BSN

BSN News用のスタジオには、プロンプタが用意してあり、手元の原稿を真正面に投影させることができるので、目線を下に落とすことなく、原稿を読むことができるようになっていた。これも特別に体験させていただいた。

会議室に戻ったあとの質疑応答の時間には、案外色々質問が出た。一緒に行った学生も、「視聴率を稼ぐためにどんな工夫をしているか」という、なかなか答えにくい質問をしていた。

アメカゴ自体もそうなのだが、今回は特に、参加者の平均年齢がやや高い印象を受けた。平日昼間の実施であるから無理もないのだが、大学生は夏休みだ。もうちょっと多くの学生が参加しても良さそうなもの。普段興味を示さない割には、実態を知らないにもかかわらず、派手さから放送局への就職を希望する学生は多いのだが。その分、敬和から参加した二人は、若者の少ない中でいろいろお話しをしてもらって、いい経験になったのではないか(これから「ラジオ聞いてね」と声をかけてもらっていた。若年層へのリーチは、なるほどラジオにとって大きな課題だろう)。

テレビやラジオ、その他マスメディアに、学生がどの程度接しているのかはさておき、やはり実際の現場におもむいて、実際の現場にいる人達がどのような思いで仕事をしているかを見ることは、非常に大事なこと。情報メディアを学ぶゼミの学生たちには、またどこかで機会を作りたいと考えている。関係者の皆さんご協力をよろしくお願いします。

BSN新潟放送

アメカゴ.net | マイホーム

今年はフジテレビ、JSOCに加え、ニッポン放送も訪問:敬和一戸ゼミの東京研修旅行(2月実施分) | ICHINOHE Blog

東京研修旅行終了:フジテレビとJSOCをめぐる | ICHINOHE Blog

@kunisadaisato

国定三条市長、Twitterの更新をストップ

三条市の国定勇人市長が、これまで活発に発言してきたTwitterでの発言をストップした。

@kunisadaisato

原点回帰: 三条市長日記

ところで…

 

突然ですが…

 

ツイッターを止めにしようと思っています。

 

積極的に止める動機もないのですが、何となく“チェックしなければっ!!!”という強迫観念に駆られてしまう自分がいまして…

 

そして、私自身への呟きだけでなく、ツイッター全体に漂っている、必要最低限の“節度を守る”“初対面の相手に対する配慮をする”といった、社会人として当然の、ごくごく常識的なことのルールから逸脱する傾向が強すぎるような感じがしまして…

 

そういう風潮に、敢えて、自分自身が屹然と立ち続ける価値を見出しきれなくなりまして…

 

そんな様々な思いから、止めることにしました。

でも、拙ブログは続けていくつもりですし、拙ブログの更新のお知らせを自動的に配信できる価値そのものはあると思っていますので、厳密に言えば、“呟きそのもの”を止めにしたいと思います。

今後Twitterは、ブログの更新情報を流す「ボット」として利用するということのようだ。

「社会人として当然の、ごくごく常識的なことのルールから逸脱する傾向」がTwitterに広がっているという点については、強く同意する。かつてのTwitterに残っていた、アカウント名を背負った責任感のようなものは、東日本大震災を契機にしてすっかり消えさった。こうした個人を背負ったコミュニケーションは、実名制という、より強い抑制を働かせたFacebookに移行し、かつてTwitterで主として発言していた人たちもFacebookに移行した結果、Twitter空間では、匿名での「叫び」や「義憤の表明」の割合がさらに増えているようにも感じる。

政治の世界にある人々にとってTwitterは、マスメディアのフィルターを通すことなく、自らの主張を人々に届けられるソーシャルメディアの一つ。しかし皮肉なことに、Twitterが普及して選挙区の人々に声を届けられる程度にTwitterがパワーを持ち始めると、Twitter空間が変貌し「節度を守」らない人々が増え始め、節度のない発言だけが目立つようになってしまった。国定市長のTwitter空間からの決別、タイミングとしては少し遅いぐらいかもしれない。

Ta Dah !

ソーシャルメディア時代の個の発信術:さなメモから

「レッツノート・ビジネススキルアップ・アカデミー」での、津田大介さんとの対談について、「さとなお」さんが語っている。テーマは「ソーシャルメディア時代の個の発信術」。津田さんの語った内容はまだ確認していない(たぶんメルマガに載っている)が、非常に興味深い対談だったよう。さとなおさんの語っている内容だけでも、多くの示唆がある。ポイントは自らをさらけ出し、個人が個人として、発信力を高めていくということ。

Ta Dah !

Photo by Darwin Bell.

(写真は「さらけ出し」のイメージです。本文とはあんまり関係ないか)。

 最初の記事は第一部でのお話の内容。

ここ10年くらいのネット業界で起こっているいろいろな出来事は、ほとんど1990年代中盤の日記猿人やReadMeとかで起こっていた。そして最近ソーシャルメディア上で起こっているいろいろな出来事も、ほとんどボクが「ジバラン」を主宰して経験したことや、オンラインゲームの「ウルティマオンライン」で経験したことだ。マウスイヤーで進んでいるように見えるネット業界だけど、実は歴史は繰り返している。だからボクはいろんなことにものすごくデジャブー感が強い。

そして回り回って、あのころ(1990年代末)「インターネットってすげぇ!」「世の中を変える!」と思った感じが、いま、ソーシャルメディアでようやく現実化された感もある。一時期、2ちゃんも含め「ネットの闇」ばかりクローズアップされ、ネットがネガで残念な存在になってしまっていたが、もともとインターネットというのは親密で温かい希有な技術だと思う。それがソーシャルメディアでようやく現実化されつつある。待ちに待った千載一遇感。だからボクはこの世界に本格的に身を投じてもっとこの世界を広げようと決意した部分がある。

 

というか、「個の発信術」とかいうお題が出ること自体が奇跡的だと思う。

この辺の話は、40代以上の古くからのネットユーザにとっては、かなり共有されているのだと思うが、40代以上でも、2000年代以降にインターネットを利用し始めた人はいるし、ましてそれより若い世代であれば、それ何の話ですか?ということになのだろう。僕自身ここ数年、インターネットの歴史について、なるべく学生に話すようにはしてきたが、一度体系的にまとめて、わかりやすく伝えるための作業が必要だなと実感しているところ。その意味で、さとなおさんの話には非常に共感し、参考にしたい表現であった。

「もともとインターネットというのは親密で温かい希有な技術」というのは、後からきた人たちとはあまり共有されていない感覚だ。いくら言っても紙にこだわって、ネットを非難する大人たちにイライラするのも、「個の発信」の価値よりも「無口な群衆」でいることに価値を置く学生たちにイライラするのも、この点での価値観の共有ができていないからであり、丁寧に説明するべき立場にいるのは自分なのではないか。そう思った。

たった20年弱前くらいまでは、何かを世の中に発信しようと思ったら、マスメディアに出るか、本を出すか、くらいしかなかったのだ。あとは広告クリエイターになるとかね。

 

でも、その場合でも、マスメディアや本や広告の文法やお作法に合わせなければならず不自由だった。自由な発信という意味では、個展や立会演説会や壁新聞みたいな手もあったが、発信できる範囲がとても狭い。

 

そう、ネットで「個」を自由に日本や世界に発信できるということは、当たり前のことではなく、実にラッキーな、中世や近世の人たちが考えたら、死ぬ程うらやましがられるような、すごいことなのだ。それを、しあわせにも、我々はこの手に持っている。

 

文明が誕生して約1万年。人類が有史以来手に入れられなかったものすごい恩恵。

 

個が自由に発信できていたら、もっと有名になったり、もっと世界をよりよく変えたりできた天才たちが山ほど歴史には埋もれていると思う。

 

そのことへの感謝の思いが常にあるなぁ。

 

運動音痴にスポーツの楽しさや価値をいくら説いたところで、そこに踏み出そうとはしない。最近学生たちとしゃべっていて思うのは、「発信音痴」というか、そこに向かう基本的な意欲や能力を欠いている学生の場合、「個の発信」の価値を説いたところで、あまり価値を感じないということ。

その一方で多少表現力のある学生は、ネットよりも紙の方が、手に取れる分、価値があると思っているんだなと感じることも多い。これはつまり、「個の発信」が可能になったという状態は、彼らにとっては当たり前で、土管のようなものになってしまっているのではないかということ。

紙に価値がないとはいわないが、学生一人一人が、今すぐ無料で、「個の発信」をし、多くの人と交わりを持てるというのが、どれだけ稀有なことか。20数年前に、言いたいことはあるが発信手段を持たない、東京在住の一学生だった自分には、とてもよくわかることなのだけど。情報発信の手段は当たり前にあるが、発信する表現力を持たない学生たちには、なかなか響かない。もっともっと、彼らの潜在的な表現欲求を引き出すような工夫を、していくべきなのだと思う。

後半のテーマは、「企業の中の個の発信」。

ボクは、ソーシャルメディア時代、「個であること」ほど、大切なことはない思っている。

 

独立してひとりで生きろ、とかノマドしろとか、そういう意味ではなく、組織や肩書きに頼らず、「自分」を晒して生きることがとても大切だと思っている。

 

なぜなら、ソーシャルメディアは「個」と「個」のつながりでできているから。

 

「個」と「個」のつながりのみででき上がっているメディア上では、「個である自分」しか人はつきあってくれない。

大学教員という肩書きは、役に立つような役に立たないような微妙なもので、それによって多少こちらの話を聞いてもらえるようになりそうなときには、自分自身それに頼ってしまうこともなくはない。面倒くさそうなので近寄ってきてもらえないというのもあると思う。ともあれ、ソーシャルメディア上では、価値ある情報発信ができるかどうかが大事で、肩書きはほとんど意味がない。いや、誰が言っているのかを人は見ているので、厳密には意味がなくはない。しかしネット上には、その人の過去の発言や発信内容が蓄積されていて、それ自身が信頼の源泉になるのであるから、○○株式会社とか○○大学といった所属先よりも、こちらのほうが頼りになる、というわけだ。

有名大学の学生になれなかった大学生にとっては、この構造は非常に大きなチャンスだと思うのだが、実際にはそううまくはいかない。有名大学の学生でなくとも、「発信力」のある学生であれば、その人の評価は蓄積するのだが、残念ながらその割合は低い。そもそも「発信力」のある学生というのは、どこの大学でもきわめて稀な存在だ。卵と鶏の関係にあるというべきか、彼らを評価する企業側も、学生の「発信力」をポジティブに評価する体制にはない。期待するほど「発信力」のある学生はいないので、「ソー活」とはいうものの、問題発言をしてないか、ネガティブな方向にチェックしているのがほとんどのようだ。

「組織や肩書きに頼らず、「自分」を晒して生きる」人は、おそらくどんどん増えている。こうした若者たちはきっと、これからの社会のリーダーになっていくだろう。一方、その境地に至ることができない多くの人々を、どのようにエンカレッジするか。それは、僕がこれから細々と取り組んでいくべき課題だと思っている。

「痩せた頼りない自分」というフレーズ、とてもいい表現だ。「痩せた頼りない自分」をさらけ出し、他者とつながりを持ち、共感を得る。あらためて、実践していこう。

三つ目の記事は、「痩せた頼りない」個人同士の、相互理解の可能性について。これも非常に共感できるお話であった。

このテーマでは、藤代さんの「発信力の鍛え方」もオススメ。学生にもわかりやすく、非常に平易に書かれていて、それでいて、非常に説得力がある。

発信力の鍛え方 (PHPビジネス新書)

 

鉢呂氏辞任の裏に原発問題?

鉢呂元経産大臣の辞任について、長谷川氏が鉢呂氏にインタビューして構成した記事。
当事者が初めて語った「放射能失言」の裏側!鉢呂経産大臣は原発村を揺るがす 「原発エネルギー政策見直し人事」 の発表寸前だった  | 長谷川幸洋「ニュースの深層」 | 現代ビジネス [講談社]
なぜフジは裏の取れない内容を報道し、各社も不正確な情報でそれに追随したのか。噂が噂を呼ぶ形で雪だるま式に報道が過熱したのであれば、RTでデマの広がるTwitterと同じ構図だ。その意味では、このような検証記事が出るのは非常に重要だ。真相がどうであれ、この不正確で不揃いな報道がなぜ行われたのかを探る必要はある。
さらに長谷川氏は、『総合資源エネルギー調査会』のメンバーに、反原発派の人を増やそうと鉢呂氏が指示していたこととの、この問題との可能性に切り込んでいる。

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