カテゴリー別アーカイブ: socialmedia

地域科学研究会・高等教育情報センター「ソーシャルメディアの活用と留意点」でお話ししてきた

6月22日の昼間は、麹町にて表題のセミナーに参加。4人の講師の一人としてお話させていただいた。

chiikikagaku-k.co.jp/kkj/seminar/120622.pdf

出席者は大学関係者、とりわけ敬和よりも大きな三大都市圏の大学の、広報部門に属する職員の方が多かった。地方私立での、しかも教員主導の取り組みは、さながら「ゲリラ戦」のように見えたのではないかと思う。私のあとにお話された関西学院大学新谷さんの、周到に進められたソーシャルメディア導入のお話とは、対照的であった。しかしそれぞれ手法は違うけれども、大学という保守的な風土の中に、苦労してソーシャルメディア利用を定着させていく取り組みであることは間違いない。関学のやり方にも大いに学ぶところがあった。

大学プロデューサの倉部史記さん、ガイアックスでスクールガーディアン事業をされている河本寛さんともいろいろお話できた。倉部さんの講演で紹介された事例には、自分でもすでに実践している、あるいは実践したいと思っている事例がいろいろあった。ただその中でもとりわけ印象的だったのは、倉部さん自身がニコ生番組「真☆大学デビュー」を制作、出演して、高校生向けに語りかけているという話。語りの手法を工夫して、ニコ生ならではの「共感」を引き出す番組作りが次第に見えてきたというお話であった。今度ぜひ拝見したいと思う。

こちらのチャンネルから、金曜夜22時から配信とのこと。

ウーカルTV Channel – ニコニコチャンネル

【告知】【SD講演】ソーシャルメディアの戦略的活用についてお話しします : 大学プロデューサーズ・ノート

Keiwa Open College (a series of lectures for citizens) in Sanjo City, Niigata

新潟市北区の市民講座でソーシャルメディアについてお話ししてきた

昨晩、新潟市北区の豊栄地区公民館で開催された、敬和学園大学のオープンカレッジでお話をさせていただいた。

Keiwa Open College (a series of lectures for citizens) in Sanjo City, Niigata

昨日は写真を撮り忘れた。上は三条で2008年にお話させていただいた時のもの。

オープン・カレッジ 「「絆」~見えるつながり・見えないつながり~」(新潟市北区会場)のご案内 – 敬和学園大学

今回は4回シリーズの1回分の担当。「ネット」や「ソーシャルメディア」が統一テーマであるわけではないので、受講生の皆様も、「ネット初心者」でもなく、ひょっとすると、「ネットに関心のない人たち」も含まれていたように思う。実際中高年の方も多く、「最近スマートフォンに機種変更された方いらっしゃいますか?」と聞いたところ、全く手が上がらなかった。

最近のネット、ソーシャルメディア、スマートフォンなどの事情についてお話しし、その上で、それが震災などの非常時にどのように活かされたか、課題はなかったか、について私なりの見解を述べさせていただいた。

普段はネットを使っている人、あるいは、TwitterやFacebookを始めたい人、を相手にお話をすることが多いので、なかなかハードルは高かったが、自分なりにお役目は果たせたのではないかと思う。中高年にソーシャルメディアについて理解していただくのは、骨の折れる作業ではあるが、社会的にも大事な仕事だと考えている。機会をいただければ率先して出かけて参りますので、お声掛け下さい。

Lunch meeting

「ソーシャルランチ」をアルジャジーラが紹介

2人ペア☓2組でランチを楽しむソーシャルランチ。

Lunch meeting

By am4ndas

Facebookベースの実名制と、2人1組でいくという気軽さで、じわじわと支持を得ているようだ。日本のメディアでもかなり紹介されているが、アルジャジーラでも紹介されていた。

Making new connections over lunch in Japan – Asia-pacific – Al Jazeera English

残念ながら新潟ではこのサービスの知名度が低く、まだあまり多くのペアが候補に現れるようになっていない。ランチで人脈を広げるという考え方はそれなりにあって、Facebookを見ると複数のグループが「パワーランチ」の企画をやっているようだが。

4月には大学版も出ていて、大学生同士の交流にも利用できるようになっている。大学生の場合には、社会人よりも自由に動き回れるわけだが、それでもいちおう最寄り駅を中心にマッチングするということになるのだろうか(とすると、東京でも郊外にある大学、まして地方となると、選択肢が非常に狭まることになる。新潟では同じ駅を最寄り駅とする学校はほとんどない)。

ソーシャルランチなどのサービスに対しては、「新たな出会い系では」とか「変な人が現れたらご飯食べられない」といった声も聞こえてくる。ただ、会う人を選ぶのは結局自分(たち)だ。ソーシャルランチのプロフィール欄は、Facebookをベースにして設定される。それぞれが設定したプロフィールを確認して、会うべき人か会ってみたい人かを選別している。そこに、「名刺じゃんけん」のような、「肩書き勝負」の部分がないとはいわないが、もっとトータルに、その人の活動や考えや評判をのぞいた上で、判断が可能になってはいるので、あとはそこに集うユーザたちの行動によって、コミュニティの空気は決まってくるように思う。

ソーシャルランチ

ソーシャルランチが全国対応:新潟でもソーシャルランチを | ICHINOHE Blog

Tumblr party photo booth

Gizmodoが「ブログは死んだ。これからはTumblrだ。」と宣言

Gizmodoが「ブログは死んだ。これからはTumblrだ。」というエントリーを発表した。

Tumblr party photo booth

Photo by Tom Purves.

ブログは死んだ。これからはTumblrだ。 : ギズモード・ジャパン

Tumblrがブログを完全に追い越すXデーがやってくると言う。
それは…、2012年10月12日だっ! ばばんっ!

Source: gizmodo.jp via Shinya on Pinterest

これは、Googleトレンドの検索数から割り出したもので、Tumblr時代を宣言するにはまだ時期尚早というべきだろうが、ブログに代わる、あるいは、ブログとしてのTumblrへの関心が 、高まってきているのは間違いないようだ。

残念ながら日本での知名度はまだまだ。だいぶ広まってきたとはいうものの、まだ知る人ぞ知る存在といったところか。先日何人かのゼミ学生に紹介してみたけれど、ほとんどが挫折してしまった。メニュー部分はかなり日本語化されたのだけど、まだまだ英語しかない部分もあるようで、ReblogなどTumblrの概念がまだわかっていないこともあいまって、「わかりにくい」という印象を持ったようだ。

Tumblr

 

private theater

大学時代はSNS観の切り替え時期:就活生のFacebook「のぞき見」について

(タイトルを一部変更。「大学生」→「大学時代」に)

ソーシャルメディアを利用した就職活動、「ソー活」の一側面。企業側が学生のFacebookをのぞくことに対して、批判の声があがっているという、j-castの記事。

private theater

Photo by caffeineslinger.

「本音書けないSNSなんて…」 就活生のFacebook「のぞき見」に疑問の声 (1/2) : J-CASTニュース

「就活生の素を知るため、学生のFacebookを覗く」――こんな動きが企業の間で広まっているが、インターネット上では批判の声があがっている。
若者の間では友人などとの交流のために使われることが多く、FacebookをはじめとしたSNSにはプライベートな空間というイメージがあるが、就活に影響してくるとなると、本音を言えない場所になっていくのではないかと懸念されている。

「公開されているけど(公開されていたとしても)、気分はプライベート」というSNS観は根強い。これには2種類あって、1.リアル接続型プライベート限定利用、2.バーチャル匿名利用、に分けられるのではないか。主としてFacebookに広がっているのは1のタイプだと思うが、2の世界観が、Facebookでも展開されていることもなくはないだろう。

1のタイプは、友人関係で楽しくSNSを利用しているのだが、それが不特定多数の人に公開されているということを忘れてしまう人たち。Twitterでは、知らない人に話しかけられるとびっくりしてしまう。あるいは仕組みをよく理解できていない人も結構いると思う。過去の学生炎上事例はこのタイプの学生によるものが多いだろう。「内輪からパブリックに緩やかにつながる」という感覚は、案外理解するのが難しく、こうした人達に、思い切り敷居を下げて、「友達とつながる」シンプルなスタイルをアピールして成功しているのが、LINEということになるだろうか。

2のタイプは、Facebookにはあまり出てこない、どちらかという「非リア」の人たちが多く、リアルでのアイデンティティとネットでのアイデンティティを完全に切り離そうとする傾向が強いように思う。このタイプは、2ちゃんねるや、今はTwitter利用者にも多くなってきたのだろう。j-castがとりあげている、Twitterからの批判的意見は、この層から出てきていると考えられる。この人達はFacebookで笑顔でプロフィールを公開することへの抵抗も強く、前向きな自分を「作り上げる」ことに批判的なのではないかと予想できる。

一方1のタイプには、「プロフィール写真は正面から撮った笑顔のアップ、友人の数は50人以上、週2回以上前向きな内容の書き込み」といった具体的なアドバイスは、たしかに有効だろう。このアドバイスで学生から金をとっているというあたりに、ちょっと悩ましいものがあるし、多少やりすぎ感はあるけれど。企業側がネガティブチェックにFacebookを利用する傾向が多い中にあって、とりあえずこの程度の体裁を作っておくというのは、それ自体前向きとはいえないが、最低限の措置ということになる。これぐらい具体的なアドバイスじゃないと実践できないというのは情けない話だが、そんな大学生を作ってきたのは、ソーシャルメディアを理解できない大人たちだ。

そこから先、大学生の内輪受けから抜けだしていけるかどうかは、Facebookの中だけに閉じられた問題ではなく、少なからずその人の生き方の問題でもある。就活の時期が迫って、急に体裁を繕ったとしても、中身の底の浅さは、すぐにバレる。この辺は一朝一夕には改善できないので、学生生活を送る中で、徐々にギアチェンジをしていく必要がある。

ここまで書いて、GLOCOM豊福先生の最近のTweetを思い出した。

「仮面人格」ではなく、そのままの自分(これも程度問題なのだが)が受け入れてもらえるかどうかは、SNSとは何ら関係がなく、どんな学生生活を過ごすかにかかっている。おおむね、高度なコミュニケーション能力が求められるという意味で、非リアには辛い状況だと言われれば、その通りかもしれない。しかし少なくとも大学生になったら、過去のSNS観とは決別して、リアルと接続した人格を反映させながら、SNSと付き合えるよう、少しずつ試運転を重ねていくのがよいと思う(すぐにはできるようにならない)。

一方大人たち。もう一つ豊福先生のTweetから。

SNSやケータイとの距離の置き方は教えるが、現実生活とリンクしたSNSの使い方や「発信力」については、ほとんど教えられていない。教えられないといったほうが正しいだろう。そもそも大人たちの多くが、「匿名なら何でもあり」か「匿名で見てるだけ」という経験しかない(教育界には後者が多い?)ので、オンラインでのアイデンティティの育て方など、想像もつかない人が多いはずだ。この点はより根深い問題だが、一人一人のリテラシーが高まるのを待つよりほかない。スマホ時代の到来ははたして、保守的な教育界が変わっていく、きっかけになるだろうか。

Ta Dah !

ソーシャルメディア時代の個の発信術:さなメモから

「レッツノート・ビジネススキルアップ・アカデミー」での、津田大介さんとの対談について、「さとなお」さんが語っている。テーマは「ソーシャルメディア時代の個の発信術」。津田さんの語った内容はまだ確認していない(たぶんメルマガに載っている)が、非常に興味深い対談だったよう。さとなおさんの語っている内容だけでも、多くの示唆がある。ポイントは自らをさらけ出し、個人が個人として、発信力を高めていくということ。

Ta Dah !

Photo by Darwin Bell.

(写真は「さらけ出し」のイメージです。本文とはあんまり関係ないか)。

 最初の記事は第一部でのお話の内容。

ここ10年くらいのネット業界で起こっているいろいろな出来事は、ほとんど1990年代中盤の日記猿人やReadMeとかで起こっていた。そして最近ソーシャルメディア上で起こっているいろいろな出来事も、ほとんどボクが「ジバラン」を主宰して経験したことや、オンラインゲームの「ウルティマオンライン」で経験したことだ。マウスイヤーで進んでいるように見えるネット業界だけど、実は歴史は繰り返している。だからボクはいろんなことにものすごくデジャブー感が強い。

そして回り回って、あのころ(1990年代末)「インターネットってすげぇ!」「世の中を変える!」と思った感じが、いま、ソーシャルメディアでようやく現実化された感もある。一時期、2ちゃんも含め「ネットの闇」ばかりクローズアップされ、ネットがネガで残念な存在になってしまっていたが、もともとインターネットというのは親密で温かい希有な技術だと思う。それがソーシャルメディアでようやく現実化されつつある。待ちに待った千載一遇感。だからボクはこの世界に本格的に身を投じてもっとこの世界を広げようと決意した部分がある。

 

というか、「個の発信術」とかいうお題が出ること自体が奇跡的だと思う。

この辺の話は、40代以上の古くからのネットユーザにとっては、かなり共有されているのだと思うが、40代以上でも、2000年代以降にインターネットを利用し始めた人はいるし、ましてそれより若い世代であれば、それ何の話ですか?ということになのだろう。僕自身ここ数年、インターネットの歴史について、なるべく学生に話すようにはしてきたが、一度体系的にまとめて、わかりやすく伝えるための作業が必要だなと実感しているところ。その意味で、さとなおさんの話には非常に共感し、参考にしたい表現であった。

「もともとインターネットというのは親密で温かい希有な技術」というのは、後からきた人たちとはあまり共有されていない感覚だ。いくら言っても紙にこだわって、ネットを非難する大人たちにイライラするのも、「個の発信」の価値よりも「無口な群衆」でいることに価値を置く学生たちにイライラするのも、この点での価値観の共有ができていないからであり、丁寧に説明するべき立場にいるのは自分なのではないか。そう思った。

たった20年弱前くらいまでは、何かを世の中に発信しようと思ったら、マスメディアに出るか、本を出すか、くらいしかなかったのだ。あとは広告クリエイターになるとかね。

 

でも、その場合でも、マスメディアや本や広告の文法やお作法に合わせなければならず不自由だった。自由な発信という意味では、個展や立会演説会や壁新聞みたいな手もあったが、発信できる範囲がとても狭い。

 

そう、ネットで「個」を自由に日本や世界に発信できるということは、当たり前のことではなく、実にラッキーな、中世や近世の人たちが考えたら、死ぬ程うらやましがられるような、すごいことなのだ。それを、しあわせにも、我々はこの手に持っている。

 

文明が誕生して約1万年。人類が有史以来手に入れられなかったものすごい恩恵。

 

個が自由に発信できていたら、もっと有名になったり、もっと世界をよりよく変えたりできた天才たちが山ほど歴史には埋もれていると思う。

 

そのことへの感謝の思いが常にあるなぁ。

 

運動音痴にスポーツの楽しさや価値をいくら説いたところで、そこに踏み出そうとはしない。最近学生たちとしゃべっていて思うのは、「発信音痴」というか、そこに向かう基本的な意欲や能力を欠いている学生の場合、「個の発信」の価値を説いたところで、あまり価値を感じないということ。

その一方で多少表現力のある学生は、ネットよりも紙の方が、手に取れる分、価値があると思っているんだなと感じることも多い。これはつまり、「個の発信」が可能になったという状態は、彼らにとっては当たり前で、土管のようなものになってしまっているのではないかということ。

紙に価値がないとはいわないが、学生一人一人が、今すぐ無料で、「個の発信」をし、多くの人と交わりを持てるというのが、どれだけ稀有なことか。20数年前に、言いたいことはあるが発信手段を持たない、東京在住の一学生だった自分には、とてもよくわかることなのだけど。情報発信の手段は当たり前にあるが、発信する表現力を持たない学生たちには、なかなか響かない。もっともっと、彼らの潜在的な表現欲求を引き出すような工夫を、していくべきなのだと思う。

後半のテーマは、「企業の中の個の発信」。

ボクは、ソーシャルメディア時代、「個であること」ほど、大切なことはない思っている。

 

独立してひとりで生きろ、とかノマドしろとか、そういう意味ではなく、組織や肩書きに頼らず、「自分」を晒して生きることがとても大切だと思っている。

 

なぜなら、ソーシャルメディアは「個」と「個」のつながりでできているから。

 

「個」と「個」のつながりのみででき上がっているメディア上では、「個である自分」しか人はつきあってくれない。

大学教員という肩書きは、役に立つような役に立たないような微妙なもので、それによって多少こちらの話を聞いてもらえるようになりそうなときには、自分自身それに頼ってしまうこともなくはない。面倒くさそうなので近寄ってきてもらえないというのもあると思う。ともあれ、ソーシャルメディア上では、価値ある情報発信ができるかどうかが大事で、肩書きはほとんど意味がない。いや、誰が言っているのかを人は見ているので、厳密には意味がなくはない。しかしネット上には、その人の過去の発言や発信内容が蓄積されていて、それ自身が信頼の源泉になるのであるから、○○株式会社とか○○大学といった所属先よりも、こちらのほうが頼りになる、というわけだ。

有名大学の学生になれなかった大学生にとっては、この構造は非常に大きなチャンスだと思うのだが、実際にはそううまくはいかない。有名大学の学生でなくとも、「発信力」のある学生であれば、その人の評価は蓄積するのだが、残念ながらその割合は低い。そもそも「発信力」のある学生というのは、どこの大学でもきわめて稀な存在だ。卵と鶏の関係にあるというべきか、彼らを評価する企業側も、学生の「発信力」をポジティブに評価する体制にはない。期待するほど「発信力」のある学生はいないので、「ソー活」とはいうものの、問題発言をしてないか、ネガティブな方向にチェックしているのがほとんどのようだ。

「組織や肩書きに頼らず、「自分」を晒して生きる」人は、おそらくどんどん増えている。こうした若者たちはきっと、これからの社会のリーダーになっていくだろう。一方、その境地に至ることができない多くの人々を、どのようにエンカレッジするか。それは、僕がこれから細々と取り組んでいくべき課題だと思っている。

「痩せた頼りない自分」というフレーズ、とてもいい表現だ。「痩せた頼りない自分」をさらけ出し、他者とつながりを持ち、共感を得る。あらためて、実践していこう。

三つ目の記事は、「痩せた頼りない」個人同士の、相互理解の可能性について。これも非常に共感できるお話であった。

このテーマでは、藤代さんの「発信力の鍛え方」もオススメ。学生にもわかりやすく、非常に平易に書かれていて、それでいて、非常に説得力がある。

発信力の鍛え方 (PHPビジネス新書)

 

新潟のネットユーザをゆるくつなげてみるために、「新潟ソーシャルメディアクラブ」というのを作ってみた

新潟に引っ越してきて2年半が経過し、その間新しいウェブの世界の動きについて、いろいろな方に教えてもらった。しかしそのほとんどは、東京のコミュニティやネット上のコミュニティで教えてもらったもので、新潟県でウェブ系のイベントに参加する機会というのは、ほぼ皆無だった。いろいろ調べてみると、古くからメーリングリストを使ったりして運営されている、どちらかというと技術系のコミュニティというのはあるということがわかったが、東京で開かれているような、ウェブ系に詳しい比較的若い人たちが中心となるコミュニティは、どうやら存在していないように感じる。

実際、TwitterやBrightkiteをiPhoneで使ってみると、100キロ圏内にほとんどユーザがいないという状態になる。こういうとき、東京と新潟の間にあるギャップは、非常に大きいように感じられるが、たぶんそれはiPhoneユーザも少ないということだけが理由ではないだろう。

というわけで、新潟でもなにかコミュニティ活動ができたらいいなと考え、mixiその他あちこちに「新潟ソーシャルメディアクラブ」という名前のコミュニティを作ってみた(エントリーの最後にリスト化した)。お気軽にご参加ください。
技術系に限定せず、むしろ「ソーシャルメディア」のユーザである(あるいはユーザになりたい)という接点で、新潟にいるネットユーザをゆるやかにつなげられたらいいのではないかと思っている。

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WAKHOK的なGree

教員の自分がやる気になったせいか、一戸ゼミでもGreeが急速に普及し始めた。
SFCでのブームから半年近く遅れている。指導教員のアンテナが鈍っているようでは、学生のアンテナが鈍るのもしょうがない。とはいえ、今日の時点で「稚内北星学園大学」というグループには23人、「一戸ゼミ」には9人が登録している。もちろん、早慶のような大所帯には及ぶべくもないが、北海道の大学でならば、北大の次に大きなグループがWAKHOKになるようだ。
丸安ゼミでは半年前には始まっていたのだろうし、自分も安藤先生からずいぶん前に招かれていたのだが。
この前も書いたけど、やっと意味がわかってきたところなのだ。
Gree、あるいはソーシャルネットワーキングの本来の意味が何なのかはさておいて、大学、とりわけWAKHOKのようなコミュニティで、これをどのように使うかが問題だ。もともと稚内もWAKHOKもコミュニティが小さいので、その小さなコミュニティだけに閉じているならば、あまり必要がない。Greeは友達の紹介文を相互に掲載するのだが、閉じられたコミュニティの中だけでその情報が流通すると、なんとも気持ちが悪い「ほめごろし」大会になってしまう。とりあえずSFCに半年遅れながら、一戸ゼミは名簿作りをGreeで実践中。OB・OGの皆さんもぜひ入って、ほめ殺しあってください。
一人の人間がいろんな種類のコミュニティに連なっていて、それらが人を介してシームレスにつながっていく。こういう面白さは、日々膨大な数の他人と道ですれ違っている都会人にこそ感じられるものなのかもしれない。
WAKHOKには今年から東京にサテライト校ができて、東京でも学生が在席している。東京の学生と稚内の学生は、8月のサマースクールをのぞけば、同じようなことを勉強しているにもかかわらず、普段顔をあわせることはまずない。たぶん一緒に何かやることで、お互いにメリットになることはみつかるんじゃないかと思う。まずはその辺からはじめるというのが現実的なところだろうか。