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弘前中三を再び輝かせるRINGOMUSUME(りんご娘)「Ringo Disco」

1995年に毛綱毅曠さんの設計で新築された弘前中三。弘前市内中心部のランドマーク的存在だ。オープンしたときに、自分はすでに青森を離れていて、弘前の中心市街地である土手町の力も徐々に失われてきていたと思うが、そこにユニークな建物で登場したのが、老舗百貨店弘前中三の新しいビルだった。

残念ながら土手町がかつての輝きを取り戻すことはなく、中三自身も民事再生法適用申請し、苦難の時期が続いた。営業は再開されたが、建物も徐々にふるぼけてきて、このランドマークの輝きも徐々に失われてきていた。

築25年の少し古めかしくなかったビルを、きらびやかな舞台として活用したのが、地元アイドルのりんご娘の新曲「Ringo disco」。洗練された曲調ときらびやかな照明で、老舗百貨店の店内を輝かせてみせている。

うまく話題になっていけば、この建物の存在が見直され、中心市街地の起爆剤になる。といったらいいすぎかもしれないが、「地元のデパート」として、あまり価値を感じていなかった人たちもこの建物を見直すきっかけにはなるだろう。

【NAKASAN × RINGOMUSUME】
3rd Album「FOURs」収録曲「Ringo disco」Music Video

RINGOMUSUME(りんご娘)
とき・王林・ジョナゴールド・彩香

・WORDS AND MUSIC BY
SHINYA TADA
・ARRANGED BY
TAKASHI SHIMADA
・CHOREOGRAPHY
HIROMI

【online shop】
https://www.amazon.co.jp/dp/B07NBDQXG6/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_itqWDbE1EZR7Z
【itunes】
https://music.apple.com/jp/album/ringo-disco/1453977339?i=1453977348

【MV】
・PRODUCER
RINGOAME-MAN
・DIRECTOR
YUMA HIRAI

長野と新潟の「からす踊り」

昨年「新潟県の名水」の取材で十日町市に行った際、取材先の中手集落で「からす踊り」についての話をきいた。「限界集落」の中手集落では、すでにからす踊りを踊るイベントはなくなってしまったというのだが、からす踊りがどんな踊りかわからない、学生と私は、うまく反応できなかった。

ちょっと検索してみると、十日町・津南あたりから長野県の北信、飯山のあたりに広がっていた踊りのようで、いろいろ動画が出てくる。おそらくある程度の共通フォーマットはあるものの、基本的には集落ごとの独自のスタイルがあるという。それをその時々の「歌い手」がアレンジして笑いをとったりして、夜祭りでみんなで盛り上がっていたものなのだろう。

現在の映像を見ると、集落ごとに独自のからす踊りを維持するのはもう難しくなっていて、もう少し広域での「盆踊り」として行われるようになっているようだ。また同時に、かつての「出会い」の場であったお祭りも、高齢化や若者のライフスタイルの変化もあって、若い人たちのためのイベントになっているようには見えない。

津南町内の盆踊りに踊られる。長野県北部から新潟県南部に分布し、歌い手と踊り手に分かれ、歌い手を中心として踊り手が輪になって踊る。歌は、歌詞が繋がっており、熟練した歌い手による歌は、途切れることがなく、かつては一晩中踊り明かしたという。

抑留生活から復帰して、弘前高校の校長をつとめた「ダモイ」こと小田桐孫一先生について

1月の弘前高校同窓会新潟支部の会合で、同窓会副会長から支部に贈呈されたのが、小田桐孫一先生の肉声テープのCD。同窓会メンバーは普段からよく会っているわけではないので、私のところにまわってきて耳にすることはなさそうだが、音源の一部は、すでに東奥日報によって、YouTubeで公開されている。

弘前高校、弘前実業高校の名物校長で今も伝説的な存在として語り継がれている小田桐孫一(まごいち)さん(1911~82年)の式辞など、肉声を録音したオープンリールテープが残されていたことが23日までに分かった。教え子たちに惜しみない情熱と愛情を注いだ小田桐さんの人となりをしのばせる、戦後の青森県教育史上でも貴重な音声が残されていたことを両校の関係者らは大きな喜びや驚きとともに受け止めている。
http://www.toonippo.co.jp/

今回の同窓会で配られた、小田桐孫一先生のプロフィールは、あらためて興味深かった。「ダモイ」というあだ名(ロシア語で「帰国」という意味。抑留者がもっとも強く記憶しているロシア語の言葉ということだろう)を、本人がどう思っていたのかはわからないが、それもまた、今となってはさまざまに想像をかきたてる。

文藝春秋の記者を1944年3月までつとめたあと、旧制弘前中学に勤務していたところ、応召したのだという。支部の先輩いわく、文藝春秋時代にも中国に渡り、紙の調達のための活動をしていたという(ここは伝聞情報なので、もう少し検証が必要)。対米開戦の旗を振ったとされる文春をやめて、郷里に戻ったところで応召し、終戦後4年間抑留生活(カザフスタンで抑留されていたという)を送るという経歴には、いろいろな「行間」を想像させるが、私の持つ限られた情報ではそこには迫ることができない。

先日亡くなった作家の長部日出雄さんは、弘前高校時代哲学研究クラブで、小田桐先生の影響を強く受けたと語っている。長部さんの著書から、ひょっとしたら小田桐先生のことがもう少しわかるのかもしれない。

1930年の桃園復興郷の映像(日本統治時代の台湾)

2018年12月に台湾に調査に行き、主に霧社事件に関係する場所を調査してきた。かなり久しぶりの台湾であったが、多くの研究テーマを見つけることができたので、今後はまた頻繁に訪ねたい。

台湾統治時代の日本政府にとって、山間地域の理蕃政策は大きな課題であったが、1930年に霧社事件が起きた頃には、それも(日本人から見れば)一定の落ち着きを見せていた。大きな不満が「蕃人」の間にくすぶっているとは思っていなかったようだ。1930年10月27日、霧社の小学校の運動会をマヘボ社の男たちが襲撃し、多くの日本人が犠牲になった事件。その後の日本による討伐では、味方蕃と呼ばれた別の村の男性たちにマヘボの人たちを襲撃させたり、毒ガスを使用したり、さらに悲惨な出来事が起きている。

霧社ではないのだが、この頃の村々の様子がわかるのが以下の映像。South Carolina大学図書館所蔵。1930年、日本統治時代の台湾桃園県の復興郷角板山、霧社事件が起きた年の映像だ。こちらの映像は表面的にはいたって平穏だ。

「桃園」といえば、今は台湾の玄関口、空港がある場所のイメージが強い。この映像に出てくる復興郷角板山というのは、桃園県の中でも郊外で、Googleで見た感じでは、今も相対的には「田舎」のようだ。

警察官のところ(交易所と書いてある)に村人がなにか持ち込んで、物々交換で生活物資を入手している。途中で、警察官が講話をしているよう様子を撮影(取り直している)、内容はよくわからないけれども、村の施設を建設するので手伝うように求めるような内容だった。

由影片中可看出臺灣原住民將農產及紡織品運至由日人管理之”角板山交易所”換取現代化成品及玩具。日本軍官由已受日本教育之原住民兒童翻譯對部落做政令宣導的講座。日治時期角板山(桃園復興鄉)已有設置「蕃童教育所」。
影片出處:http://mirc.sc.edu/islandora/object/usc%3A23222

 

 

 

 

家で食べたチャークイティオ

【マラッカ生活】チャークイティオをたのめばオッチャホイが食べられる

(新潟日報モアに2015年5月21日に寄稿したものです)

マレーシアに来て一ヶ月。マレーシアのローカルフードをいろいろ食べていますが、とりわけ「きしめん」のような麺には、注意をはらって過ごしています。

新発田のシンガポール食堂に、オッチャホイというメニューがあるのをご存知でしょうか。創業者がシンガポールで働いていた時代の料理を再現したもので、「きしめん」のような麺を使った焼きそばです。新発田市民には「ローカルフード」として親しまれています。このルーツにたどりつきたいという思いが、私を「きしめん」のような麺へと向かわせているわけです。

オッチャホイ

上の写真が、オッチャホイです。

マレーシアとシンガポールは陸続き。1965年に、マレーシアから追い出される形でシンガポールが独立、先に亡くなったリー・クアンユー首相(当時)が、涙を流して国民に独立を伝えたという話は、非常に有名です。

マレーシアでもシンガポールでも、この「きしめん」風の麺は、「Kuey teow」(クイティオ、クワイティオ)と呼ばれています(うまく発音できないのですが)。クイティオを焼きそば風に炒めもの「チャークイティオ」といい、この名前で売っているものはだいたいオッチャホイの味。店によってもちょっとずつ味は違いますし、「ノーチリ」といえば辛くないものも作ってくれますが、基本的にちょっとだけ辛い味付け(で、チリが別添えになっているので、足りない人は辛みを足します)になっていて、これもオッチャホイと同じです。

家で食べたチャークイティオ
家で食べたチャークイティオ

上は、4月に家に持ち帰って食べたクイティオ。居候先で買ってきてもらったものなので、どこのお店のものかはわかりません。

イオンフードコートのチャークイティオ
イオンフードコートのチャークイティオ

二枚目はマラッカイオンのフードコート内で食べたチャークイティオ。色としてはこちらのほうがオッチャホイに近いですね。

オッチャホイにも汁オッチャホイという、スープに入ったものがありますが、クイティオにも汁物があります。というよりは、麺類がいろいろあり、麺料理を頼むとどの麺がいいかという話になります。イエローミー、ビーフン、クイティオ、ヒーキャオなどがあるなかで、きしめんのごとく一番太いのがクイティオです。

ワンタンミースープ
ワンタンミースープ

上はマラッカ市内の十二間珈琲店というお店(珈琲店というカテゴリーで麺などの食べ物を出している店が多いです)で食べたもの。「汁クイティオ」という名前ではなく、「汁ワンタンミー」。ワンタンミーは、つまりワンタンメンで、「スープ」か「ドライ」を選択し、ドライだといわゆるオッチャホイの状態のものに、汁ワンタンが付きます。だいたいワンタンミーというと、細い麺を使うのですが、この店の場合には、太い麺を選べました。

「オッチャホイ」という名前で理解してくれる人は、シンガポールでもマレーシアでも、今のところ現れていませんが、この「チャークイティオ」が「オッチャホイ」と同じものと考えて間違いないでしょう。ただクイティオ自体は麺の種類の名称なので、オッチャホイという料理名とはやや意味合いが異なります。チャークイティオは「炒めクイティオ」と言っているのであって、それ以外のさまざまな麺料理にも、クイティオは用いられています。

さて結局、「オッチャホイ」という名前がどこから生まれてきたのか。マレーシアに来る前からの疑問が、解消したわけではありません。「オッチャホイ」に類する名前の麺料理が別にあるのかどうか。その答えにたどりつける気はしませんが、何かわかったら、また報告したいと思います。

道民のジンギスカン愛を歌った 仁井山 feat.GREAT G.and Surprise「ジンギスカン」

10年前に発表されたものらしいが、道外に暮らしている人にはあまり知られていないのではないか(自分は長らく知らなくて、別の「ジンギスカン」の歌を探していて、ひっかかった)。北海道民の「ジンギスカン愛」を歌ったもの。北海道に暮らした人でなくとも、文化的な背景にそんなに深入りしているわけでもないので、「道民はジンギスカンが好きなんだなあ」ということになるだろうか。

歌っている仁井山征弘(にいやま ゆきひろ)さんは、1979年生まれのヒップホップシンガーで、2005年ユニバーサルミュージックよりデビュー。

(アイキャッチ画像:WashiTabi)

047.温泉街でジンギスカン – 写真共有サイト「フォト蔵」

Experience Melaka Heritage City

マラッカを紹介する「Experience Melaka Heritage City」

マレーシア政府観光局によるYoutubeチャンネル「Truly Asia TV」による、マラッカ紹介ビデオ。個人的には、2015年滞在時に何度も訪れた、懐かしい風景がたくさん出てくる。旧市街の昔からのショップハウスを利用したゲストハウス、Jonker Streetのランドマークともなっているカフェ「Geographer Cafe」、ニョニャ料理の名店Nancy’s Kitchen (2015年に自分が滞在している間に移転した)などが出てくる。

弟をあやすために即興で歌っていたカセットテープ(1975年)が切れていた

1975年3月、父と弟と3人で留守番をすることとなり、生後間もない弟をあやすため、創作歌を延々と歌っているワタクシの音声が入ったカセットを、実家で見つけた。
残念ながらオリジナルのこのカセットは切れてしまっていたが、ダビングしたカセットは残っていて、データは無事。父が分解して、オリジナルのカセットもつなげたが、まあ音質がそう変わるわけでもない。ただ、このカセットは何度も家族できいていたので、この筐体自体に意味があると言えなくもない。

歌詞には、「白鳥」「悪魔」「アルバイト」「ヨット」など、4歳児とは思えないワードがいろいろ入っている。当時住んでいた家の近くに白鳥が飛来していて、川で高校ボート部が練習していて(とっさにボートが出てこないので、ヨットになった)、悪魔の話は教会で聞いたのだろう。「アルバイト」だけがよくわからない。当時の記憶はほとんどないはずなのだが、このテープを聞きながら、当時の状況についても、家族で何度も話していたので、なんとなく記憶が残っているような気持ちになってはいる。

子どもが即興で歌うという面白さのほかに、もう一つこのテープには意味があって、祖母の肉声が記録されている。母方の祖母が、母とともに帰宅し、そこで父と息子の子守は終わるのだけど、終わる前にしゃべっているところが少し録音されていた。10年ほどのちに、祖母は他界するのだが、母の姉弟からすれば、このテープは別の意味で重要な記録となった。

このカセットテープは、別の音源が入っていたテープを上書きして録音したようで、「マルタ島の砂」「イエスタデイ」という曲名が書いてある。「マルタ島の砂」というのは、初めてきいたが、ハーブ・アルパートの70年代のヒット曲のようだ。

自分が溜め込んでいたカセットテープは、引っ越しを繰り返すうちに捨ててしまって、ほとんど残っていないのだが、家族の記録として実家に残っているカセットテープは、そろそろデジタル化すべきかと思い、少し調べてみたが、実は3000円ぐらいの簡易な機器が売られていることがわかった。3000円程度で、USBメモリにデータ化した音源を吐き出せるのであれば、いいのではないか。

CGTN

南京事件80周年報道と山本武「一兵士の従軍記録」

2017年12月13日は、南京大虐殺から80年。中国の英語チャンネル「CGTN」でも、南京大虐殺特集が組まれていて、南京事件当時の現地の様子を映像に記録したジョン・マギー氏の孫が登場したほか、南京大虐殺が起きた背景に関する専門家へのインタビューなどが放映されていた。

ジョン・マギー – Wikipedia

日本では、「習近平氏は、自ら演説しなかった」という点に着目、日中関係に配慮したのではないかという憶測/分析が流れた。

習主席、出席も演説せず=南京事件80年、対日配慮か-中国:時事ドットコム

日本人の動きについては、あまり記事をみなかった(もっとも当日の日本メディアをちゃんとチェックしていないのだが。)が、中日新聞が、福井県から南京での法要(仏教式なので、おそらく政府主催のものとは別)に参加した男性のことを報じている。

南京大虐殺、現地法要に福井の男性参列:福井:中日新聞(CHUNICHI Web)

1937(昭和12)年の南京大虐殺から80年の13日、父親が南京攻略戦に従軍した元鯖江歩兵第三六連隊兵士だった福井市の男性が、中国・南京で営まれた平和法要に参列した。日中韓の僧侶と共に追悼した男性は「これで許してもらえるとは思わない。これからも戦争をするなという父の言葉を伝えなければ」と話した。

山本富士夫さんの父、山本武さんは、南京事件の際にも従軍しており、そのときの記録を自費出版しているそう。

調べてみると、山本武「一兵士の従軍記録」という本で、自費出版であることもあり、入手は困難なようだ。福井県立図書館、福井市立図書館には所蔵されている。

山本武の「陣中日記」を読みたい。県立図書館や福井市立図書館で読めるとインターネットに書いてあった。 | レファレンス協同データベース

このほか、おそらくほぼ同じ内容の「翻刻版」として、隼田嘉彦「山本武の『陣中日記』」が、福井大学教育学部紀要に掲載されている。

CiNii 論文 –  山本武の「陣中日記」-上-

稚内

稚内市に「樺太記念館」開館へ

稚内の副港市場に、全国樺太連盟から資料提供を受けて、樺太記念館を開設というニュース。

「稚内市樺太記念館」開館へ 資料2千点や映像公開 来年5月末、副港市場内に:どうしん電子版(北海道新聞)

樺太出身者らでつくる全国樺太連盟(本部・東京、西本美嗣会長)からの提供資料を展示するほか、映像資料を公開するスペースも設置。市は観光客をはじめ多くの人が樺太について学ぶ機会となることを期待している。

通年で開館するために、冬場閉館する百年記念塔(稚内公園にある北方記念館)ではなく、副港市場にしたのはよい判断だろう。

お土産・温泉・お食事などが入った日本最北端の複合施設 副港市場

北方記念館も、地味ながらいい展示内容なので、通年展示にできたらいいとは思うが、訪れる人も多いとはいえない。記念館のある「稚内公園」は、高台で見晴らしがよく、日によってはサハリンものぞめる立地だが、冬場そこまでのアクセスを確保するのは容易ではない。

全国樺太連盟が2021年までに解散する計画というのは知らなかった。たしかに、引き揚げ者が高齢化しており、北方領土のように返還を求めているわけでもなく、団体として続けていくのは難しい状況にあるのだろう。

少し調べてみたところ、連盟の西本美嗣会長のインタビューが、2016年の8月、毎日の記事に出ていた。資料の引受けは、稚内のほか、北海道博物館にも期待されている。「副港市場」は商業施設なので、展示する以外の資料をアーカイブする機能はあまり期待できないだろう。稚内市がこれに関してどんな姿勢を示すのか、すべて「札幌に任せる」ということにするのか、「アーカイブの一部も稚内が担う」という立場をとるのか、注目されるところだ。

樺太40年史:後世に 歴史書近く完成 「全国連盟」解散へ続く取り組み /北海道 – 毎日新聞

−−連盟の解散をどう進めていくか。
◆会員から寄贈された資料が8000点ほどある。北海道博物館(札幌市厚別区)や稚内市の北方記念館に引き取ってもらうことになっており、引き継ぎをしっかりしたい。樺太では日本が降伏した後も地上戦や空爆があり、多くの人が亡くなった。遺骨収集は調査が難航しているが、できるだけ協力していく。我々が元気なうちに、できることはやっておきたい。