ジョン・カビラさんによる川平朝清さんへの親子インタビュー(再放送):戦後沖縄の放送の歩みを知る

沖縄の声放送社屋

ジョン・カビラさんが、お父さんの川平朝清さんにインタビューした番組特別番組『J-WAVE SELECTION GENERATION TO GENERATION ~STORIES OF OKINAWA~』が、8月9日に再放送されました(最初の放送は2019年6月23日、沖縄慰霊の日)。まだradikoのタイムシフトで聞ける状態になっています。

GENERATION TO GENERATION ~STORIES OF OKINAWA

【受賞】戦後の沖縄でラジオが必要だった理由―父・川平朝清から息子・ジョン・カビラへ語り継ぐ | 無料のアプリでラジオを聴こう! | radiko news(ラジコニュース)

J-WAVEがいま注目するさまざまなトピックをお届けする日曜夜の番組『J-WAVE SELECTION』。6月23日(日)のオンエアでは、「GENERATION TO GENERATION~STORIES OF OKINAWA~」と題して、ジョン・カビラがナビゲート。カビラの父で現在91歳の川平朝清さんは、戦争を経験し、終戦後に沖縄で放送に携わりました。当時体験し感じたことを、息子カビラが訊きました。

オンエア日の6月23日は「沖縄慰霊の日」でした。昭和20年(1945年)4月1日、アメリカ軍は慶良間諸島に続き、沖縄本島に上陸。日本軍との間で激しい戦闘が行われました。亡くなった方の数は、アメリカ側で1万2,500人を超えます。そして、日本側は軍に属さない民間人も含め18万8,000人を超える人たちが亡くなったとみられています。このうち、およそ半数は非戦闘員の一般市民でした。

昭和20年6月23日、日本陸軍の牛島満司令官が自決。自ら命を絶ち、日本軍の組織的な戦いが終わりました。しかし、沖縄など南西諸島の日本軍が全面降伏に調印したのは9月7日。つまり、6月23日の後にも、戦争で亡くなった方が多くいました。「沖縄慰霊の日」は、犠牲になった方々に祈りを捧げる日です。

戦後、沖縄は昭和47年(1972年)の本土復帰までアメリカ軍の直接統治下に置かれ、日本の政治、経済、法制度、さらに文化面から切り離された状態に。そんななか、沖縄でラジオ放送の立ち上げ、そしてその後、テレビも含む沖縄の放送に深く関わったのが、カビラの父である川平朝清さんです。

激しい戦いの末、焼け野原と化した沖縄。アメリカ軍の統治下に置かれた沖縄……そんな沖縄でのラジオ放送はどのように始まったのか。そして、どんな思いを込めて、どんなことを伝えてきたのでしょうか。

第57回ギャラクシー賞ラジオ部門で大賞を受賞した、父・川平朝清からジョン・カビラへ語り継ぐ沖縄の物語、8/9(日)再放送決定! ※ジョン・カビラ コメントあり|J-WAVE(81.3FM)のプレスリリース

この番組は、2019年6月23日の「沖縄慰霊の日」に、J-WAVEで開局以来ナビゲーターを務めるジョン・カビラが、終戦後の沖縄でラジオ放送の立ち上げをはじめ沖縄の放送に深く携わった父・川平朝清氏へインタビューする形で、父から子へ語り継ぐ沖縄の物語をお届けしたもの。
川平朝清氏が体験した終戦後の沖縄の様子、戦後の沖縄で最初のラジオ局であり米国軍政府の運営であった「AKAR 琉球の声」アナウンサー時代、琉球放送(RBC)を経て沖縄放送協会の設立、現在の沖縄への思いなど、数々のエピソードが語られている。沖縄を報道する側から見てきた川平朝清氏がその時代に体験したこと、感じたことを伝える貴重なインタビューである。
​番組は、第57回ギャラクシー賞ラジオ部門において栄えある大賞を受賞。リスナーから祝福の声とともに再放送を希望する声が多く寄せられ、今回、待望の再放送が実現することとなった。

川平家は、琉球王朝に仕えた家柄なのですが、川平朝清は台湾で生まれて、台湾で終戦を迎えています。台湾生まれの日本人、いわゆる「湾生」です。終戦とともに沖縄に戻り、戦前台湾放送協会にいたお兄さんが、沖縄に放送局を作ろうとする活動に参加し、その後放送に関わるようになります。

カビラ:戦火の傷跡残る沖縄で、なぜラジオが必要だったのですか?
川平:台湾から引き上げてきた兄は、戦後の沖縄には人々のために娯楽と情報と教育の面で一番ラジオがいい、と考えたからです。そこでラジオ局の開局を進言したわけです。当時の副知事には「ラジオなんて誇大妄想もいい加減にしろ。電気もない、受信機もない、そんなところで沖縄人がラジオ局をやると言ったらアメリカ人に笑われるぞ」と言われました。しかし兄はひるまず、今度はアメリカ軍政府にこの案を持っていきました。そうしたら、アメリカ軍政府に「放送をやれる沖縄人がいるのか」と言われ、「私は台湾でラジオ局を経験している。技術者もいる」と返答すると、「じゃあ、軍政府(の予算)でラジオ局をやる」と言われました。

そこで開局したラジオ局が「AKAR 琉球の声放送」でした。

カビラ:このラジオ局開局で最初にどんな曲を流したんですか。
川平:『かぎやで風』という沖縄の古典音楽で、沖縄のお祝いで必ず演奏する曲です。「今日のうれしさは何に例えよう、つぼんでいる花が露を受けて、パッと咲いたようだ」というような意味のこの歌を流しましたね。

米国留学を経て、川平さんは、米軍統治下の沖縄に戻り、RBC 琉球放送に参加します。米軍統治下にあっても、自主規制を行いながらも、米軍統治の問題点も指摘できたという話も出てきます。

カビラ:ベトナム戦争が始まった当時、どういう思いで伝えていたんですか?
川平:番組には自己規制がありました。それはやむを得ない。それでも出すべき情報は番組で出す。「これはちょっと(彼らの)気に障るな」という情報も出しました。そのときのプログラムディレクターが柔和な人だけど骨のある人で、言うべきことは言う。例えばアメリカ軍の犯罪に対してニュースを出すときに、「その犯罪の取り扱いに沖縄の警察が及ばないことはいかがなものか。沖縄で起こった犯罪については、それなりに沖縄の警察も尊重すべきではないか」というような意味合いのこともやりました。

ジョン・カビラさんは、私が上京した頃からJ-Waveの看板DJで、英語と日本語を巧みに使わけながら番組進行する「Tokyo Today」を、毎朝聞いていた記憶があります(夜ふかしして寝坊している日もありましたが)。それから30数年、第一線で活躍し続ける息子のジョン・カビラさんからインタビューされ、これまでの歩みをお話しする川平朝清さんが、息子のジョンさんをリスペクトしてお話しする声が非常に印象に残りました。互いを尊重し合う親子の語りから、沖縄の戦後の歩みや放送史を知ることで、より深い理解が得られたように思います。

川平朝清さんのインタビューを探してみると、NHKの放送文化研究所が「オーラル・ヒストリー」研究として取り組んだものが、「放送研究と調査」に掲載されていて、PDFでも公開されています。

【放送のオーラル・ヒストリー】
“ゼロ”からの出発 ~戦後沖縄放送史を生きる~ 川平朝清(元沖縄放送協会会長)

また、NHKのラジオ第一でも「三宅民夫のマイあさ!」という番組で、同様のインタビューが行われています。

琉球王朝の流れを継ぐ家系の末えい・川平朝清さん92歳  首里城への思い|読むらじる。|NHKラジオ らじる★らじる

沖縄の放送史は、本土とはかなり違うものがあり、以前から興味があったのですが、これを機に少し調べてみようと思っています。

朝清さんのお兄さん朝申さんがつとめていた台湾放送協会の台北放送局は、現在、台北二二八紀念館となっています。1947年に、国民党政府に対する現地の人たちのデモである「二二八事件」は、放送局の占拠に発展したこともあり、現在も博物館として、日本統治時代の台湾と、その後の民主化に向けた台湾の人々の努力を展示するものとなっています。

台北二二八紀念館 | 台湾観光-台北ナビ

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