1930年の桃園復興郷の映像(日本統治時代の台湾)


2018年12月に台湾に調査に行き、主に霧社事件に関係する場所を調査してきた。かなり久しぶりの台湾であったが、多くの研究テーマを見つけることができたので、今後はまた頻繁に訪ねたい。

台湾統治時代の日本政府にとって、山間地域の理蕃政策は大きな課題であったが、1930年に霧社事件が起きた頃には、それも(日本人から見れば)一定の落ち着きを見せていた。大きな不満が「蕃人」の間にくすぶっているとは思っていなかったようだ。1930年10月27日、霧社の小学校の運動会をマヘボ社の男たちが襲撃し、多くの日本人が犠牲になった事件。その後の日本による討伐では、味方蕃と呼ばれた別の村の男性たちにマヘボの人たちを襲撃させたり、毒ガスを使用したり、さらに悲惨な出来事が起きている。

霧社ではないのだが、この頃の村々の様子がわかるのが以下の映像。South Carolina大学図書館所蔵。1930年、日本統治時代の台湾桃園県の復興郷角板山、霧社事件が起きた年の映像だ。こちらの映像は表面的にはいたって平穏だ。

「桃園」といえば、今は台湾の玄関口、空港がある場所のイメージが強い。この映像に出てくる復興郷角板山というのは、桃園県の中でも郊外で、Googleで見た感じでは、今も相対的には「田舎」のようだ。

警察官のところ(交易所と書いてある)に村人がなにか持ち込んで、物々交換で生活物資を入手している。途中で、警察官が講話をしているよう様子を撮影(取り直している)、内容はよくわからないけれども、村の施設を建設するので手伝うように求めるような内容だった。

由影片中可看出臺灣原住民將農產及紡織品運至由日人管理之”角板山交易所”換取現代化成品及玩具。日本軍官由已受日本教育之原住民兒童翻譯對部落做政令宣導的講座。日治時期角板山(桃園復興鄉)已有設置「蕃童教育所」。
影片出處:http://mirc.sc.edu/islandora/object/usc%3A23222

 

 

 

 

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