新潟ソーシャル時評:老獪な新潟人が新潟を救う


(2014年03月31日新潟日報モア「新潟ソーシャル時評」から転載。)

3月31日朝刊にて、連載「再考原子力」の企画。田中角栄氏の秘書官を長らく務めた小長啓一氏をインタビュー、電源三法が原発立地に果たした役割などを聞いています。聞き手は論説編集委員の横井裕さん。

[再考原子力 新潟からの告発]田中角栄氏の元秘書官・小長氏に聞く|社会|新潟県内のニュース|新潟日報モア

オイルショックで電力需給が逼迫し、原子力政策の推進が「まったなし」の状況に陥った結果、立地市町村から歩み寄りを引き出すために交付金を分配するための制度を設ける必要があったと、小長さんは説明しています。どのように立地市町村が受け入れに向かっていったのか、「自分で受け入れたのではないのか」という声もあるでしょうが、電力需給が逼迫している状況を改善することは「国策」としても非常に重視されており、地方は交付金と引き換えに、この状況に貢献する道を選んだとも言えます。

しかしこうした「貢献」が都会で顧みられることはなく、立地市町村のことを消費地の人々は、忘れていったということでしょう。「電気は見えないから」というのが小長さんの説明です。

最後のやりとりが非常に興味深いです。

-立地を急ぐあまり、安全性が置き去りにされたのではないでしょうか。

「決して安全性を無視していたわけではないが、東京電力福島第1原発事故を目の当たりにすると、当時は安全神話に埋没していたと思う。原発誘致を進めていた町長さんの言葉を思い出す。『電力会社の若手社員の安全に関する説明に“お任せ”の気持ちだった。一流大学を出て米国で技術研修を積み、しかも立地地域に住んで通勤するというので自分も納得しました』と。その辺が実態だったのではないか」

「安全神話に安易に乗っかった地元が悪い」、そこまでは言っていないかもしれませんが、文面から見る限り「愚鈍な地元住民たちが安易に受け入れた」というニュアンスも感じます。名指しされた「地元」は怒るかもしれません。しかし「都会」からやってきた「エリート」の「専門家」にお任せしてしまうというのは、原発立地だけではなく、さまざまな事柄について、しばしば見られる現象です。

この対極にあるのが「よそものは出て行け」という排除の空気でしょうか。「よそもの わかもの ばかもの」が地域を変えるとよく言われますが、そのような変化を望まない人々が、外部からの善意の指摘を無視することも多いです。対極ではあるのですが、「お任せ」と「排除」の合わせ技で、「お任せ」しているふりをしていつの間にか「排除」するという現象もあります。

ともあれ、大きな「国策」を背負って、周到にお膳立てをされてしまうと、しかもそこに目先の利益があるならばなおさら、地域住民はついつい「お任せ」の姿勢になってしまうことが多いように思います。専門家と協調しながら、自分たちの利益を守り、地域を発展させられる老獪な人がどれぐらいいるのか。それが地域力になるのかもしれません。私自身は、役に立つ誠実な「よそもの」あるいは「ばかもの」と評価されるように、また、学生の中から老獪な新潟人を一人でも生み出せるように、教育の場所で努力していきたいと思います。

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