ケータイ小説、ケータイレポート

Waiting for the train

去年の暮れ頃、佐々木俊尚さんの「ソーシャルメディアとしてのケータイ小説」という記事を読んだ。「地
方の若者たちは夢も希望も失って鬱屈してい」て、それがケータイ小説の売り上げの全国分布に反映している、という説明に、非常に納得した。

もし佐々木さんの読みが正しいとするならば、「リベラル」を標榜する敬和学園大学は、保
守的雰囲気の漂う新潟のなかで、恐らく全く認知されていないケー
タイ小説という領域について、少なくともその何たるかを理解していこうとする姿勢を持つべきだろうと、個人的には思っている。けれども僕自身もまた、肝心のそのケータイ小説なるものを読んだことがあるわけではないということもあり、まだあまり強くは主張したことはない。

さて、そもそも携帯電話から入力されるものというのは、非常に短い文字列に過ぎず、まとまった文章を書けるはずがない。世代が上に行くほど、そのような発想に立つように思う。はたしてそれは正しい前提なのだろうか。

僕も割と上のような考え方にに近かったのだが、最近は簡単な書類程度ならば、入力文字列を携帯で入れておいて、あとでパソコンで体裁を整えるというようなことを、ときどきやっている。

松村太郎さんによれば、一部の学生たちは携帯で、まっとうなレポートを出してくるようになったそうだ。

リンク: TAROSITE.NET: In the Train.

レポートを出す側に回ると、最近の大学生のケータイへの親和性の高さには驚かされる。メール提出が可能なレポートは、ケータイのメールから提出してくる学生が少なからずいるのだからスゴイ。そしてそう言う学生の意見が、意外とシャープだったりするからまた面白い。

 

話を聞いてみると、ここにもまた驚きが隠されている。たぶん、頭の中で文章を組み立てていて、ケータイに一気にwrite downしていくのだろうか。読み返したり、校正したりすることなく、800文字のレポートが出来上がっていくというのだ。

携帯だけで800文字を入力したときに、文章全体を一覧するのは難しいという感覚はあったのだが、たしかに最近、その長さの文章が送られてきても、読むのが大変だという気分になることはなくなったような気はするので、同じように考えれば入力するのもできなくはないのかもしれない。

今の段階で僕ができそうなことは、携帯に文章構成を箇条書きにしておくくらいだけど。もうちょっとがんばればできるだろうか。小説はもともと書ける気がしないので、携帯だろうとパソコンだろうと結果は一緒だと思う。

で、松村さんのエントリーは、最後に以下のようにしめくくられている。

 

Waiting for the train

from Joi

 

 さて写真の話に戻ると、写真の中でこれだけ多くの人がケータイを開いているのだ。彼らがなんらかの知的生産活動をカジュアルにしているとしたら、日本の電車の中は世界一の情報工場になっているのかもしれない。

 そう思ったら、ちょっとくらいケータイの着信音がうるさくても、大目に見たくなってきませんか?

実は文字入力と着信音は関係がないのだが、まあここでは「知的生産活動」に対象が広がっているのでそれはおいておこう。「知的生産活動」といっても、そこで生産あるいは消費されているのは、細切れの情報に過ぎないという意見もあるだろう。ただ、数行程度であった文字による生産や消費が、800文字の文章が一気に書き下ろされていたり、もっと長い文章が読まれていたり、写真、映像、音声など多様な情報にまで拡張したりしていることを考えれば、少なくともそこでやりとりされているのは、「細切れの情報」ではなくなってきている。

今年の授業では、携帯を活用して学生がどこまでやれるのか、もう少し関心を注いでみようかと思っている。デバイスの問題ではなく、日本語能力の向上が先決というオチにならなければいいが。

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