弘前で昔の記憶を収集(2018年1月に大叔母の記憶を追記)


大叔母、「ちおば」こと一戸道の葬儀を終え、さきほど東京に来た。
いつも眼鏡をかけていた「ちおば」は、眼鏡を外していたことと、闘病中にかなり顔がやせてしまったので、とても小さく見えた。1925年に生まれ、幼稚園教諭を長くつとめてきた「ちおば」の歴史は、本人のメモに基づいて、越山司祭から紹介された。知らないことがいろいろあった。

一戸家本家の墓の中には、13年前に亡くなった、祖母の骨が原型を留めていた。人間の肉体は、ゆっくりゆっくり土に還る。当たり前の現実をあらためて確認した。
隣のりんご園のりんごは、食べごろになっていた。弟が眠る墓のすぐ近く、手の届きそうな場所に、たわわに実っていた。

兄弟姉妹で最後の一人になった、祖父の末弟である大叔父の、がっくり肩を落とす姿が、すごく印象的だった。ずっと無口だった大叔父が、夏ごろから饒舌で社交的になってきたのを感じていたのだが、今回は特に饒舌で、僕や司祭にさまざまなエピソードを語ってくれた。

Grandaunt Michi

1.大叔母ちおばは活発な一人娘で、どこへでも歩いて出かけていって、よく木に登っていた。一戸家は旧東奥義塾近くに土地を持っていて、そこにさくらんぼがなっているというので、ちおばはたびたび使用人(小作人?といっていた)を引き連れて、さくらんぼを取りにいっていた。

2.教会墓地の中には、家屋があり、教会からみんなで歩いてきて、そこで休憩することも多かった。そのときもちおばが、率先して木に登っていた。この家屋の扉やふすまがたびたびなくなるというので、そのうち家屋はなくなった。

3.弘前昇天教会礼拝堂の正面中央には、昔からイコン画が飾られているが、あれは中村司祭が「外国から」持ってきて、とりつけた。どうやってつけたか忘れたが、大叔父が上によじ登った記憶がある。(46年に笹森司祭が満州から戻ったときには、すでにイコン画はとりつけられていたそうなので、45年ごろであろうか。その頃どうやって運んできたのかは不明だ)

4.父も叔母も、ちおばに絵の指導を受けていたらしく、明らかに自分の画風とは異なる作品が、学校に提出されている(父ははっきり覚えてはいない)

断片的なエピソードは、こうやって少しずつ出てくること。でも、あとどれだけの時間が、収集のために残されているのか。

2018.1.3追記: ちおばが亡くなって10年。母が急に思い出して話していたこと。長らく弘前で暮らしていたちおばが、青森のヤコブ幼稚園で仕事を始めたきっかけは、父の青森への転勤だった。五所川原支店にいた、ちおばの甥っ子である父が、青森に転勤になったことで、当時持ち上がっていた、弘前の明星幼稚園から青森のヤコブ幼稚園への転属を、ちおばも決意したという。数年後、父は再び転勤になり、南部の八戸と剣吉(現三戸郡南部町)に6年間を過ごした。転勤する時、ちおばはかなりがっかりしていたという。その後再び青森に戻ったときには、ヤコブ幼稚園の裏にある桜川の社宅に住んだ。上の妹はヤコブ幼稚園に入り、ちおばはよく、我が家ですごしていた。頻繁に訪れる義理のおばへの対応に、母がかなり苦労していた記憶があるが、今となっては懐かしい記憶であろう。

自分自身は、青森の味ビル(という名前だったと思う)で、ちおばに食べさせてもらった、中華料理の記憶が鮮明に残っている。弘前に住んでいたいとこと自分と2人、中学生のときに連れて行ってもらった店で、中華料理屋のラーメン、カニ爪のフライなどを食べさせてもらった。そのときの美味しかった記憶から、今でも中華料理を食べに行って、カニ爪のフライを見かけると、思い出して注文している。

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