相変わらず弟が戻ってきそうな感覚


(投稿後、タイトルを変更)

明日から弘前の実家に戻り、5月に亡くなった弟の埋葬を行う。
いろいろと思案した結果、弘前の墓地には新しい墓石が立てられ、弟は独立墓で眠ることになる。

が、台風が迫ってきている。無事弘前で皆さんに集まっていただけるかどうか。ここもまた、「おさわがせ」好きな弟の意思が働いているような気もする。

リンク: mono-monologue: 花屋の広告メール.

僕は彼と現実には何年も会っておらず、ネットだけでつながっていた(僕らは商用インターネット黎明期から、お互いめんどくさがり
なので、デジタルにつながっていることが多かった)ので、彼の生き死にについて、生前の彼のムービーがネット上に存在していたりすると、まだだいぶ身近に
いるような気がする。

これが弟の友人のブログに書かれていたコメント。4ヶ月たっても、このように思い出してもらえるなんて、ほんとにありがたいことだと思う。

リンク: 手先・口先 : レクイエム.

墓は兄のために新しく作られた(両親は我が子のための墓を建てるという苦渋を味わった)。そこに兄を埋葬する時、私は4ヶ月ぶりに遺骨を見、兄が今この世にとどめているのはじじつ骨だけなのだと改めて知るだろう。

これが妹のコメント。すごくよくわかる。

弟が死を迎えるまでのプロセスを知る人は少ない。家族とごく限られた人々が、GW中の息詰まる日々を記憶しているだけだ。実際には、僕たち兄妹も、彼が実際に苦しんでいる様子を見たわけではない。

しかも、もともとが、めったに会わない「盆暮れ正月兄弟」だった。

というような事情により、遺骨とも離れた4ヶ月間は、なんとも不思議な時間であった。その感覚は、彼の友人の皆さんと、ほとんど共通するものだ。なんで彼のMSNメッセンジャーはオンラインにならないのかとか、なんで彼のブログは更新されないのかとか、携帯に電話したら出るんじゃないかとか、そういう感覚だ。

僕の感覚は、明後日になっても、何も変わらないと思う。そこに「彼はやっぱり死んでいた」という確認作業はあるけれど、ひょっこり現れるんじゃないかという感覚は、相変わらずそのまま残るだろう。ゆっくりゆっくり、彼のいない時間を積み重ねていくことしか、僕らにはできないような気がする。

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