弟の生き方を体現する自分という存在について


僕が大学を卒業したのが1993年。入れ替わりで弟naoyaiは中央大学総合政策学部に入学する。

92年の春ごろ、予備校の春期講習だったのだろうか、当時僕が住んでいた杉並のアパートに弟が宿泊していった。僕は弟の受験勉強のがんばりを、弟は僕の就職活動のがんばりを、別れ際に短く励ましあったような記憶がある。見通しの甘かった僕の就職活動は順調には進まず、結局すべての内定を断って、早稲田の大学院に進むことになる。その先がどうなるかはわからないけれども、早稲田の大学院なんだから、そのまま研究者として進んでいくことも難しくないだろうし、一般就職だってまだまだできるだろう、とまたまた楽観的な見通しのもと、早稲田から降りてきた蜘蛛の糸につかまることになった。

一方の弟は、いくつかの大学に合格、いろいろ迷った末、(評価はまだ定まっていなかったが)やりたいことのできそうな、中央大学の新設学部、総合政策学部
に進むことになる。母は、「やりたいことをやったほうがいいんじゃない?」と背中を押してあげたそうだ。

# その意味では、先月の葬儀に、中大時代の友人がたくさん参列してくださって、彼の大学時代のことをいろいろ教えてくださったのは、母にとってうれしいことであったと思う。

さて、そういうわけで、僕と弟は93年4月から2年間、千歳烏山で一緒に暮らすこととなる。僕は早稲田、弟は多摩に通学したので、その中間点ということだ。彼は中大ロゴの入ったNECパソコンをいきなり買って、がしがし使い始める。一方の僕は、学部卒業まですべてのレポートを手書きで作成していた。しかし院に入ると、みんなワープロぐらいは使うだろ、という雰囲気だったので、ワープロ専用機を親に買ってもらい、よちよち歩きを始める。

僕の大学院生活は、いい仲間たちに恵まれて、非常に学究的な雰囲気の中でスタートする。「科学としての法律学」、その中での「科学としての国際法学」というテーマに、僕はすごく引かれていたので、学究的な雰囲気の中でともに議論し、学ぶことは非常に楽しい時間であった。が、自分たちをとりまく現実は、僕の予想をはるかにうわまわる厳しいものであった。当時、大学教員としての就職まで、運よくいっても10年かかるだろうと言われた。事実30才前に就職した先輩のことが、すごい大出世のように語られていた。ここで学ぶ時間は楽しいけれど、ぎりぎり食いつなぎながら生きていくこのような時間が、10年も続くのかと思うと、ときどき暗澹たる気持ちにもなっていた。

その頃の僕は、学内のあちこちの図書館をまわって、書庫の奥深く潜入し、さまざまな論文資料の収集にいそしんでいた。そして、「非常に技術的な内容」として、テキスト等では軽くふれられるだけであった、電気通信・放送分野の国際法の領域に出会うことになる。当時弟はインターネットにすでに接続していたか、あるいはパソコン通信だったかもしれないが、とにかくネットワークサービスをいろいろ使い始めていた。一方国際法は、通信・放送分野を、国営・公営等で運営される国家管轄権行使の一つの発現形態としてとらえていた。もちろんNTTはスタートしていたし、民営化や競争導入が先進各国では進んでいた。インテルサット/インマルサットという国際組織によって運営される通信衛星も、形骸化が進んでいた。またウルグアイラウンドに基本電気通信の分野も含められ、民営化や競争導入への圧力が、途上国に対しても求められはじめていた。

弟の様子をみて、論文に出合って、そして懸賞論文の募集がでていたこと、この三つが重なって、修士1年目で僕は、「電気通信分野の法の変動」を国際法の法源論からとらえるという論文を書いて、懸賞に応募してみることになる。当時文系で電気通信を研究する人が少なかったこともあり、さいわい賞をいただくこともできた。

その後この論文があったおかげで、運よくシンクタンクに拾ってもらい、国際法からは一定の距離をおきつつも研究を続け、29歳で稚内北星学園大学に拾ってもらうことになる。もちろん後から思えば、それぞれ人手不足など外在的な要因による偶然が、僕のささやかな実績よりも多く作用していたのだけど。
今回家族で話しながら、「結局今の僕は、弟の影響を受けて、こうなっているわけだよなあ。」と言うと、母は、当時からそう思っていたと断言した。世間知らずで、現実の高い壁に苦しんでいた兄が、すいすい新しい技術に適応していく弟の様子をみて、自分の生き方を軌道修正していったというのが、母の当時からの分析だったようだ。
一方の弟も、僕が拾ってもらったシンクタンクの大先輩である、直江重彦先生のゼミで学んだ。それは開講ゼミの一覧を見て、僕からもすすめたような記憶がある。直江先生に弟は気に入られたのだが、結局先生のすすめとは関係なく、MSに就職したんじゃなかったかな。直江ゼミ時代に僕が書いた報告書を図書館で読んだという、中大時代の弟の友人もいらしたので、なるほどこういう風につながっているんだなと妙に納得した。弟は弟で、綱渡りをしながら、曲がりなりにも学究的な世界にいきついた僕を、それなりに認めてくれていたようだ。

僕ら兄弟は、その後あまり連絡を取り合わなかったけれども、互いのやることをどこかで気にしていたのだろう。同じことはやらないけれども、互いから何かを学び取って、生きてきたということなのかもしれない。特に93-95年の間に、僕が弟から受けた影響は、結構今の僕に大きく作用しているような気がしてきた。僕は弟を失い、弟から新しい刺激を得る可能性を失った。死者は残された者の記憶の中で生き続けるというが、僕の場合は弟の人生をかなり色濃く反映して、いまこうしてここに立っているということになる。単なる「記憶」という次元に留まらないわけだ。今回、弟からの影響を体現した僕自身という存在を、家族で話しながら、再認識することができた。弟の時間は、これから先永遠に止まってしまうけれども、僕は彼のことを記憶するだけではなく、自分の中で生かしてあげられるような生き方を、していかなければならないと感じた。

もちろんそれは同時に、祖父母や自分が会ったことのない先祖から、自分が受け継いできているものを、振り返ることを僕に要求しているのだとも思う。弟がすでに入院していた4月22日の夜、僕は「吉原家の130年」の上映会に行っている(ICHINOHE Blog: 吉原家の130年 映像作品上映会at BOOK OF DAYS.)。吉原家の過去を作品化するため、いろいろ吉原家の歴史を調べていった吉原さんは、今まで先祖の存在を軽視していたことを反省した、とおっしゃっていた。

僕が今回失った弟は、それとは異なる存在であるけれども、しかし先祖の人生のさまざまな努力、あるいはめぐり合わせの上に、僕の人生が成り立っているのも確かなことである。同時代を生きた弟を体現する存在として生きていきながら、一方で先人の足跡をたどることも、これから大事にしていきたいと思う。

2 件のコメント

  • 人生を通して関わった大事な人の死を受け止めるプロセスの中に『昇華』という段階があることを思い出しました。ただ、これは辞書的な意味での昇華するという意味よりも、気づかない内に自分の中に取り込まれて自分の一部となっていた故人に気づくということ。(だったはず…)
    先生の探していた「直哉さんが今どこにいるのか?」という疑問の一つの答えかもしれませんね。
    肉体的な存在は消えてしまうものですが、その人の意志や考え、行った事は常にどこかに残っている。今のブログを読ませてもらっていると、失くしたパズルのピースを一つひとつかき集めているようにも思えます。
    男性は女性よりも社会的存在証明をしたいという気持ちが強い性だと言われていますが、直哉さんの存在証明を先生が変わりにしているような感じがしました。

  • 木の葉のように

    6月に入ってから全然更新できなかった。仕事で出張したり、その帰り道に実家に立ち寄ったりして忙しかったせいもあるし、全然別のことにしばらく熱中していたせいもある。
    長兄のブログはその間順調に更新され、次兄の死にまつわる彼の思いが繰り返し吐露されていた。私はそれを見、また両親や次兄の奥さんの悲しみにふれつつも、何も書くことが出来ずにいた。あまりにも心に思うところが多すぎて、とても手が回らない。さわりだけ書くとか、続きは後日…とかいうことが苦手なので、まとめて書ける機会を待っていた。
    次兄の死に対…

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