弟の闘病と「しあわせの理由」

Ginza, 3rd, May, 2007

両親とともにいったん実家の弘前に戻った後、今朝から奥羽本線特急いなほで6時間ちょっと、さきほど新潟に戻ってきた。

先日「 ICHINOHE Blog: 「幸せの理由」と怪奇大作戦.でちらっと書いたグレッグイーガンの「 しあわせの理由」について(ひらがなで「しあわせ」が正しかった)。すでに妹、僕の友人、弟の友人、いろんな人が僕に続いてこの本を読み始めていて、局地的な口コミが発生しかかっているようだ。

さて、先日のエントリーで僕は、こんな風に書いた。

脳が保証してい
る「自分」という存在の危機に対し、SF好きな彼が、彼なりの解釈をしていたことは、十分にうかがい知れた。弟が世を去った今、
その解釈の正しさを確認することはできないし、たとえもう一度会うことができて、話すことが許されたとしても、彼は僕の分析を否定し、依然平静を装うと思
う。

その「解釈」とは何か。披露するほどの深い話でもないのだが、表題作を読んでいたときの現実の直哉の状況とあわせて、少し書いてみよう。

4月27日未明の緊急手術の際、当初の患部とは恐らく異なる、小脳の一部を切除するとともに、開頭により脳圧を下げる処置が行われた(小脳の一部切除が必要になる事態に至っていたことは、後の説明で理解できたが、その原因について、病院から説得力のある説明はなかった。この間の経緯について、我々家族には言いたいことが山ほどあるのだが、今のところは詳しい記述を差し控えたい)。

翌28日土曜日に僕や妹が上京した後も、依然脳圧亢進(脳圧が高い)状態であったが、脳低温療法を含むあらゆる手段を講じることで徐々に脳圧は低下した。29日-5月1日にかけて仕事をかたづけるためにいったん新潟に戻った僕であったが、実はこの脳圧の変化や予後のことが気になって、なかなか仕事は手につかなかった。

僕が連休中日の5月1日の授業を終えて上京し、20時前に病院にいくと、両親はすでに都内の滞在先に帰宅していて、状態は好転してきた。僕を含むその他のメンバーも、虎ノ門で食事をして帰宅した。帰宅前に面談した際、医師も、脳圧管理が今のところうまく行っているという見解を示したが、もしリスク要因があるとすれば、血圧の低下だという説明であった。血圧が低下した場合には、脳圧管理の措置のうち、副作用として血圧を低下させている措置を中止するとともに、使用する昇圧剤もさらに強力なものにする必要が出てくるという。つまり現在は体に負担をかけながら脳を保護するための措置を取っているが、もし血圧が低下してくるようだと、心肺機能を維持させるための措置も並行する必要があり、両者は相矛盾するので、結果的に脳圧亢進状態に戻ってしまう可能性が高いということになる。

この日僕が考えていたのは、この万が一のリスクについてではなく、脳圧が安定したとして、その彼の脳は今どうなっているのかということであった。医師からこの点についての明確な説明はまだなかったし、家族もこの点について医師に深く突っ込んで聞くことがなかったようだ。より正確に言うと、聞くことができなかった。だが、小脳の一部が切除され、後頭葉もダメージがあるようだという示唆があったので、予後に大きなチャレンジが待っていることは大いに予測できた。この日僕は、神経内科医を父に持つ友人と夜遅く会うことができたので、その大きなチャレンジ、すなわちリハビリの困難さと可能性について、いろいろと話を聞くことができた。また友人は別の勇気あるアドバイスもくれた。万が一不幸にして脳死という事態になった場合には、両親と奥さんの意見が食い違うことのないよう、兄である僕が調整役となるべきで、そのことも頭の片隅においておけというもの。この段階で、僕に「万が一」のアドバイスをするのは、非常に難しいことだったと思う。しかしこのアドバイスは、その後の僕の心の安定に非常に役立つことになった。深夜、僕が不在の間の医師の説明書を読みながら、その日は眠りについた。

翌5月2日。事態は家族の期待を裏切る方向に展開する。病院に向かう途中、両親から「血圧のことで医師が相談したいと言っている」というメールが入った。「血圧」という文字に、僕は事態がまずい方向に展開していることを理解したが、両親は前夜の医師の説明を聞いていないので、その意味するところを理解していなかったようだ。病院に先に到着した僕が病室に入ると、医師がややあわてた様子で、「血圧が急激に低下したので、今強い昇圧剤を使うことにして、なんとか回復した」という手短かな説明をしてくれた。その後状態が落ち着いてから、家族に対して今回の措置についての詳しい説明があり、1)血圧維持のために脳圧管理の措置を一部やめることになったこと、2)その結果として脳圧が再び亢進状態に陥る可能性が高いが、血圧が再度安定しない限り、脳圧管理の措置を再開できないこと、が説明された。「妹たちを呼ぶべきか」という僕の質問に、医師は「来てもらったほうがいいでしょう。」と答えた。ほどなくして脳圧は当初の高い数値に戻り始めたが、血圧は100を切った状態が続いた。二人の妹は、この日遅く、それぞれ病院に駆けつけた。上の妹が最終の飛行機で札幌から駆けつけたのは、23時を過ぎてからだった。

翌3日も、高脳圧、低血圧の状態が続いた。昼間医師に、「このままの状態で、脳死に至った場合について、何か考えておく必要がありますか?」という質問をすると、「それはいろいろありますよ」という答えがあった。奥さんが隣にいる状態で、「何を?」とは聞けなかったし、医師も「もし仮にこのままの状態が続くと」という前おきをした上で、「脳死」という言葉を慎重に口にした。が、この時点でかなり事態は絶望的であったんだろうと思う。とはいえ、よくないながらも小康状態が続いていた。「とにかく血圧さえ回復してくれれば」と、みんなの期待はそこに集中していた。僕は急に状態が悪化することはないと考えたので、この日の午後、銀座のブックファーストに行き、弟がブログの最新エントリーで言及した「ディアスポラ」と「しあわせの理由」を買って来た。脳の話だということは分かっていたし、この深刻な事態の中で、自己決定権を行使できない彼の心のうちを知るために、少しでも役に立てばという気持ちであった。脳の病気の入院患者を見舞いながら、その脳の病気を題材にしたSF小説を読むというのは、なんとも悪趣味に響くけれども、そんなことはどうでもよかった。

Ginza, 3rd, May, 2007

「しあわせの理由」は、子供の頃脳腫瘍の手術を受けた男の話で、手術前は脳内で異常に分泌される成分により常に幸せな気分であったのに、手術後はその成分が分泌されなくなったために、不幸な人生を送ってしまうというもの。その後30歳を過ぎてからある処置をしてまた事態は展開していくのであるが、それはさておく。僕が注目したのは、脳が引き起こす自分の心理状態を、主人公は客観的に分析しているということ。脳内で起こっている事情を本人は「把握」しているのだが、その「把握」というのも脳で行われているわけだ。把握しているんだけれども、その気分・感情をコントロールはできない。

この本に言及して弟が入院生活に入っていったのは、何を意味するのか。いろいろな可能性を今も考えているのだが、この日病院で読んでいたときに思ったのは、自分自身の存在を保証している脳の機能が失われる恐怖感と同時に、そうなった自分は自分ではなくなるのではないかと示唆しているのではないかということ。もちろんこの作品の主人公は、元の自分ではなくなった自分を、もう一人の自分が「把握」しているのだけれど。

確信はなかったが、僕なりの解釈を、意識のない弟のところにいって、語りかけた。この本に言及することで何をいいたかったのか。これから弟の自己決定を僕らが代行するとしたら、果たして何を弟の意思としてとらえるべきなのか。脳死に至ったら、それはもう死なのだと受け止めてくれということなのか。もし脳の機能回復の可能性があるとすれば、意識回復直後の弟が、たとえその事態を理解していないように見えても、実は「把握」していると信じて、リハビリに協力しようと思う。などなど。予後も踏まえて自分の今後の人生のありようを選択させてあげたいという気持ち(それは人間の傲慢だといわれれば、そうなのかもしれない)と、わずかな可能性でも機能回復に向けて支援をするからとにかく戻ってきてくれという気持ち。両者が矛盾したまま、僕の心の中に存在していたように思う。しかし「脳死」を死と認めるべきという考えを、少なくとも弟は持っているように、しだいに思えてきていた。抜け殻となった肉体を動かしておくことを、弟は非合理というだろう、とも確信しはじめていた。

両親は脳圧や血圧の数値を見守る日々に疲れ始めて、この日5月3日は、早めに帰途についた。そしてその夜、両親のいないところで、医師から「脳死」についての初めての断定的な言及があった。1)丸二日間、高脳圧が続いたということは、すでに脳死に至っている可能性が高いこと、2)しかしいきなりこの状態が脳死だと判定しても家族には受け入られないと思うので、このままの治療を5月7日まで続けて、7日に医学的な意味での「脳死判定」をしたいということ、3)脳死と判定された場合にも、家族から申し出のない限り、治療は継続すること、などが説明された。この時点が、第一次の「死亡宣告」となり、奥さんやそのお姉さん、僕の妹たち、みな人目もはばからず泣き続けた。僕も涙は止めがたかったが、しかしこの脳死という事態に対してどう向き合うべきか、1日に友人と話していた最悪のほうのシナリオに進んでしまった以上、ただ泣いてばかりもいられない気分だった。泊めてもらっていた友人にも、この夜状況を話すと、奥さんと両親の意見がぶつからないよう、みんなで話し合う場面を、お前が作っていくしかない、と励まされた。

翌5月4日。昨晩の「宣告」をきいたメンバーの表情は、すべての希望を奪われた、今まで以上に陰鬱なものとなっていた。非常に辛いことだったが、朝病院にきたばかりの両親にも、昨日の悲しい「宣告」について、いきなり伝えるほかなかった。声を震わせる両親に、僕はかける言葉がなかったけれど、みんなでこの問題を考えなければ、弟に対して申し訳ないと思った。弟の意思を忖度するならば、ひょっとするとこの時点で脳死判定をすべきだということなのかもしれないと思ったが、塞ぎこむ奥さんに僕が言えたことは、両親にも昨日の「宣告」の中身を伝えるので、(脳死について)自分の意見があったら言ってほしい、ということだけだった。それ以上の言葉はかけられなかった。

皮肉にも、状態は安定していた。第一次宣告により目標を失った家族は、その後も病院に集い、折鶴を折りつづけた。たがいにかける言葉が無かった。僕はたびたび外に出て、虎ノ門病院周辺の写真(以下は病院前の通りに咲いていたもの)を撮りながら、弟に語りかけた。この事態のまま、僕らに脳死についての態度を決めさせようというのか、それとも、この後何か自分なりの幕引きを考え
ているのか。もちろん答えてくれるわけではないのだが。

Flowers in front of Hospital

午後3時ごろ、写真を撮って外から戻ってくると、血圧がやや下がってきているという。外出している家族を呼び戻すうちに、みるみるうちに血圧が下がった。両親が泣きながら聖歌を歌い始めた。それは家族がまだ一緒に暮らしていた頃、就寝前の祈りの後歌われていた、安らかな眠りを神に祈る聖歌で、僕らの共通の記憶を呼び起こす、懐かしい歌であったし、「永遠の眠り」に向かう弟を送り出すにもふさわしいものであった。僕らも泣きながら、両親に続いた。ICUの中で聖歌を歌うのはそれまではばかられた(でも父は時々歌っていた)けれど、もうどうでもよくなった。それまで「脳死」の受け止め方について考えていたことを考えると、きわめて滑稽なんだけれども、僕らは心臓が止まろうとしている弟を、歌いながら送り出そうとしていた。「脳死」について思い悩む僕らを見て、このタイミングで心臓を止めることを弟が選択したように思えて、僕は泣きながらある種の納得をしていた。歌っている家族、そして心臓死を選択した(ように見える)弟は、最後の最後、奇妙な連帯感を感じていたように思う。そして15時50分、僕の弟一戸直哉は静かに32年の生涯を終えた。

死後、遺体と再対面した上の妹は、「直ちゃんは、もうそこにはいなかった。」といった。その前にはそこにいたんだ、と彼女は自分にいいきかせていたのだろうか。たしかに脳の病は顔から生気を奪わないのであろう、最後の最後まで、彼は今にも目を覚ましそうであった。このあと不思議なことに、葬儀が終わるまで、「脳死」について誰も公然とは語らなくなった。「肉体の死を人間の死と考えたい」という執着が、僕らには根強くあるのかもしれないと、さらに強く感じた。

グレッグイーガンについて言及した弟の真意については、もちろんいろいろな解釈ができる。たとえば、当初弟が、言葉通り手術について楽観していたのだとすれば、退院後に「こういう風に自分の性格が変わっちゃったらどうしようと思ってたんだよね」と解説するつもりだったんじゃないかとも考えられる。あるいは、脳の手術で万が一、元の自分で戻ってこれなかったとしても、実際にはそれを「把握」するもう一人の自分がいるんだから、粘り強く見守ってくれというメッセージだったのかもしれない。もちろん、脳があるから自分は自分なんだし、脳死になったらあっさり逝かせてくれ、という意味にも取れる。どれが正解かはわからないが、最後の最後に心臓が止まるタイミングについては、彼が自らそれを選択したように感じた(医学的には別の理由がちゃんとありそうだけど)。もし脳死が死として認められるべきものであったとしても、その後の自分の心臓を停止させるタイミングを、少なくとも今回弟は、自ら選択することができたのではないか、そんな気がしてならない。その選択をする弟の心境は察するに余りあるが、最後に自己決定ができたんだとすれば、それはそれで一つの救いだったとも思う。

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