ITmedia News:YouTubeの合法性を改めて考える

リンク: ITmedia News:YouTubeの合法性を改めて考える.

とりあえずさらっと一読。

 「多数のユーザーが情報発信するWeb2.0時代。ユーザーの著作権侵害行為に対して、サイト運営者が責任を取るべきという考えは妥当なのか」――五十嵐弁護士は、これが今ホットな論点だと語る。

そんなこといってもユーザは責任取れないんだから、といわれそうだが、妥当な問題提起に見える。結局のところ、流れていってしまうことを前提にして、「組み換え」をしなければならないということだろう。

香港の日本化

なんとなくの印象だが、香港人はどんどん日本人化していっているような気がする。
それは文化の受容具合に起因するのか、日本文化への愛着、ただそれだけなのかどうか、まだよくわからない。経済力、かもしれない。

女性の顔つき、つまり恐らく化粧は、どんどん日本人に似てきている。香港女性は色がちょっと浅黒い人が多いと思うのだが、メーク技術が向上したのかもしれない。いかにも香港人っていう感じの女性は、特に若い世代には少なくなってきている。そういえば台湾でもそういう印象を受けたが、香港のほうが均質に、みんなの力量(?)があがってきているのかもしれない。男性も、上半身裸で働いている人が昔は多かったのだが、どんどん見かけなくなってきている。ただまあ男性の場合には、若い世代もなんとなく違うなあという気はする。

無駄な会議を減らす

リンク: ITmedia エンタープライズ:「無意味だ」と言いながら、どうして会議の改善をしないのか (1/2).

 「また会議だ。仕事にならないよ」「無意味な会議なのに、時間の浪費だ」「何とかならないのかな、ったく」…。現代の企業人たちはそうこぼしながらも、従順に会議室へ向かう。確かに無駄な会議によって浪費される時間や経費は、バカにならない。

 一方彼らは、「会議は居心地が悪くない」と潜在的に思っているふしがある。実は会議に出ている限り、彼らはいかにも仕事をしている錯覚にとらわれ、そして現状のわずらわしい仕事から解放される口実を得られる。おまけに、会議はともすれば「責任」を分散してくれる。彼らは、無意識のうちに会議を歓迎してはいまいか。

このような背景があると考えると、会議を減らすというのは構造的に難しいことなのかもしれない。会議が増え始めたら、みんなの労働意欲が低下していると考えるべきなのか。

たしかにオンラインでの情報共有で十分なことを、会議で延々報告するのは、やめたほうがいいだろう。ただ口頭で報告すると、何かその意義がみんなに伝わったかのように錯覚するのかもしれない。しゃべってるほうも「やった気」になるし。たぶんほとんど伝わってない。たしかに伝わってない人には、オンラインだともっと伝わらないのだけど。

教授会の「報告事項」「審議事項」という二本立て形式は、きっと「お上」からの声で決まっているものなんだと思うが、「報告事項」はたいていの場合、わざわざしゃべるまでのこともない。その辺を踏まえて、「お上」からは、「報告事項」のオンライン化と「審議事項」への重点をはかるようなサジェスチョンを、もししていただいたとしても、教授会運営への不当な介入ってことにはならないだろう。会議のスリム化を、自己点検評価の項目に入れたらどうなんだ?

「ただ、君を愛してる」

このところ、映画といえば飛行機で。映画館ではめったに映画を観ることがないのだが、飛行機では暇つぶしにだいたい一本ぐらいはみてしまう。今回は洋画にみたいものがなかったので、なかば消極的選択で、学生たちが「よかったよかった」とうわさしている、宮崎あおいと玉木宏の「ただ、君を愛してる」を見た。

これは結果的には正解。後半の展開にはやや不可解さも残るのだが、前半の学生時代のストーリーはすごく共感できる。学生時代のちょっとしたすれ違いが、その後の展開に大きな影響を与えるところとか、講義はBGMだというところとか(?)

大学の教員というのは、自分たちの影響の下に学生たちが成長していくことに喜びを感じる人が多いように思うし、当事者としてはそうなるように努力するべきなのだが、しかしどこかで、「僕らはBGMでいいじゃないか」っていう諦めも、必要だという気がする。なぜなら、そういう意識を多少はもってなければ、学生生活のドラマが作り出されるような舞台装置の設定を、大学が怠ってしまう可能性があるからだ。研究・教育の充実にどれだけ力を注いでも、学生たちの生活がひからびていて、ドラマの1つ2つも生まれないようでは、大学の発展は望めない。僕はそう思う。

BGMの立場であれ、こうしたドラマの現場である大学に居続けられることは、結構恵まれていることなんじゃないかと思うことがある。あの場に戻りたい、という気持ちで、職員となって大学に戻ってくる人も結構居る。そういう気持ちを教員をあんまり持ってないような気がするのはなぜなんだろう。

「気を使わせる」英語


 
香港行きの飛行機の中、ANAの機内プログラムで「ベストヒットUSA-タイムマシンスペシャル」を見ている。最近、ANAの国際線では毎回のお楽しみである。以前にも書いたような気がするようなしないような。この懐かし番組、小林克也が進行するおなじみの形式それ自体は、BS-Asahiで復活していて、BSデジタルの映るテレビを買ってから、一度だけ見た。ただ、今の流行曲ではあまり楽しくないので、結局それっきりになっているような気がする。

昔の曲が放映されていて気がついたのは、「あーこの番組は曲に字幕をつけてたんだな」ということ。ベストヒットUSAというのは、当時アメリカの流行曲を紹介するための、開かれた窓の一つであり、特に民放テレビ2局、民放FMのない街で暮らしていた僕にとっては、ものすごい情熱でチェックしなければならない外国への窓であった。字幕に目を凝らしながら、どうしてこういう訳になるのだろう、早くわかるようになりたい、でも何て歌っているのかそもそも理解できない、そういうもどかしい思いが、この番組を見ていると、思い出されてくる。

とりあえず今日分かったこと。Cheap Trickは、70年代に日本の熱狂的ファンが、世界的な人気の震源地となったこと。マドンナとマイケルジャクソンとプリンスは同い年だったこと。プリンスのKissの革新性は、エコーを用いなかったこと(なるほどそうだ)。Nirvanaは革新的だったらしいが、どの辺が革新的だったのか、小林克也から説明はなかった。今となってはWikipediaで追求できそうなネタだけど。
どうして僕がこういうことをリアルタイムで理解できなかったのか、こういう小ネタ的なことを小林克也は当時から言っていたと思うのだけど、やはり少年時代の僕は、今とは違う僕だったのだろう。不思議でしょうがない。

上京して、J-waveも聞けるようになり、外国の音楽もすっかりコモディティする。しかも一人暮らしの僕は常に金欠だから、CDを買って音楽を追及するということもしなくなった。英語はいつかできるようになりたいと思っていたし、多少の勉強はしていたけれども、留学もせず、外国貧乏旅行もせず、結局僕は無
為な時間を過ごしていたんじゃなかろうか。そういう苦い「失われた時間」の記憶を、この番組は思い出させているのかもしれない。

失われた「10年とちょっと」を経た僕は、大学で「国際派」っぽいポジションで仕事をしている。しかし依然として僕の英語は、相手に「気をつかわせる」英語でしかない。英語を英語として勉強するという姿勢は、依然として僕にはどうしても取れないんだけれども、ここから先、どうやって自分の能力を伸ばしていけばいいのか。まだまだ自分の「のびしろ」を疑ってやまない僕は、考えてしまうのであった。