mixiで氏名・性別の公開範囲を限定可能に

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昨日小倉先生からコメントをいただいて以来、改めて顕名(実名)/匿名の問題について考えている。自分が何者であるかという属性をどこかである程度さらしていかなければ、現実の自分との接点は生まれないし、だからメリットも生まれない。僕もずっとそう考えて、そのときそのときの状況で判断して、行動してきた。が、土曜日の一件は、クラスの学生たちを、みんなそろって人々の好奇の目にさらされるよう、自分が誘導してしまったことになったわけで、それこそ青ざめる事態であった。が、その後いろいろ別の角度からのご意見もいただいていることに気づき、少し冷静に考えを進めなおしている。

僕が名前をさらしてネット上で活動し始めたのは、稚内に行ってからだったと思う。その前に別の大学で非常勤を始めて、そのときはウェブにゴミのような授業用の連絡情報を実名でおいていたか。その一方でネット上では匿名でサイト運営などもやっていた。それらはまさしくSecond Life(米ドルとのリンクはなかった)であって、このサイトや関連のML、この前書いたチャットルームがらみで、現実にお会いした人だけに対してのみ、それらの情報を連結し、それ以外のネット空間の存在としては、別々の人格として存在していた。最終的にはその区別自体は、どうでもよくなったような気もするが、仕事で会った人に自分の個人ページの話はしなかった。

稚内に行ってからは、逆に情報発信への意欲を低減させながら、しかしWEBでも実名でいろいろ書いていた(個人ページのほうは、実名とリンクさせつつ継続させようと思ったが、結局意欲を失ってしまい、それなりにアクセスがあったにも関わらず、ほぼ更新されることなく崩壊した)。仕事の忙しさもあったが、やはり地方の無名の田舎教師となったことで、東京その他大きな社会への接点をつかみ、そこで努力する意欲を持ち続けるのが難しくなっていっていたかもしれない。それでもそれなりに発言を続けていくことにより、いくつか仕事のお声がかかることもあったし、それはそれでメリットがあった。逆にデメリットに注意しなければならないほど、東京その他の地域との接点も感じられなくなってもいた。都会にいると人間は人ごみに埋没するが、田舎に行くとそのコミュニティで埋没しないでいられる一方、都会からは隔絶される。物理的な距離と、国内航空券の高さは、こうやって我々のマインドを変えてしまうのであり、今でもインターネットだけでそれを超えるのは難しい面がある。

あらためて思っているのは、自分個人の現実としての存在をネット空間とリンクさせて実際のメリットを得られるのは、独立性の強い職業についている人だけであって、ほとんどの人たちにとっては、リスクのほうが著しく高い、少なくともそのように考える人が多いというのが、現実なのかもしれないということ。特に都会では、それはそれで、ある種の見識かもしれないという気はする。だからこそ、現実との紐帯はできるだけ切っておけ、という初心者へのアドバイスは、デフォルトのスイッチとして意義があるという意見が強いのだろう。ミクシーの選択は、まだデフォルトのスイッチを切るものではない。on/offの切り替えはたしかに本人が細かく選択できるべき事柄(もともと実名じゃない登録は容易に出来たわけだから、今回のはより「細かく」切り替えられるようになったということ)なので、歓迎すべき事態ではあろう。

ただ、実際には独立性の低い職業といっても、今の社会ではさまざまな濃淡をもった人のつながり(乱暴にまとめると「人脈」?)で仕事をしている人は多いわけだし、独立性の高い職業の人たちも増えているんじゃないかと思う。特にそういう人たちは、実名でのネット上の表現活動を通じて、日常的に自分の人格や考え方を通じた付き合いを広げて深めていける可能性はあるので、決してメリットは少なくないと思うし、少なくとも、必要に応じて自分自身の情報の開閉を調整できるようなしかけを、追及していく意義はある。が、まだまだ僕たちは「出る杭は打たれる」ところに生きていて、だからまずはデメリットを考え、基本は匿名で、という風に流れてしまうのかもしれない。

このエントリを書いている間に小倉先生のブログに、先日のコメントと同趣旨の記事が出た。そして、普通の人は匿名でいいんだわ、という匿名のコメントも来た。いろいろ考えている僕の頭の構造が、そのまま二つの意見として現れた感がある。

とりあえず今日はここまでにしておきます。この先考えているのは、学生へのエンパワーメントとしての位置づけ。実はかなり絶望的ではあるけれども、しかし「実名」問題とのリンクはあるような気がしている。ある種の覚悟を持った発言を促し、学生を大人として取扱い、鼓舞していくことは、自分の世界観にこもりっぱなしの学生たちが外に出るために、役立つのではないか。「具体的な指示」だけを求める学生たちを前にして、絶望的になりつつも、かすかな光明を見出すための思考実験として、考えを進めてみたい。

グーグル、Google Apps for Your Domainに新機能「Start Page」を追加 – CNET Japan

リンク: グーグル、Google Apps for Your Domainに新機能「Start Page」を追加 – CNET Japan.

これまた魅力的だ。こうやってどんどんツールを広げていく潔さは、たぶんどこかで「ここからは有料ですよ」という引き金なので、注意が必要だが、Googleの場合は課金モデルも結構合理的な庶民価格で設計してくれる。そうやって、人々をGoogleの「サービス」に囲い込むことに恐らく意味がある。ポータルにしてもらう必要はないんだろう。

(つながるようなつながらないような脱線)

今日ゼミでTim O’Reillyの「Web2.0」を読んでいて気がついたが、今の学生たちは、もう、Netscapeのことを知らないのであった。Netscapeの考え方が、マイクロソフトの成功モデルから抜け出せなかったのに対して、Googleが全く異なるアプローチで成功した、という話。そこまではまあ一生懸命読めば理解できるんだが(その前にあきらめてる学生50%)、「ねすけ」の時代をみんな知らないし、「IE=インターネット」ではないことを知らないような感じなので、まあたしかにそれだったらこの話は理解できないよなあ、と妙に納得した。

妙に納得はしたけれども、それ以上に、「このサービスは、どういう目的で僕らに提供されているのか」という視点は、ほとんど学生には育ってないのかもしれないという気がした。それは研究者とかジャーナリストとか経営者とか、その他一部の人たちの、「引き」「俯瞰」の目線であって、普通の人は「とりあえずこれどうすればいいの?」っていう目前のものへの視点しか持たないのかもしれない。それが「とりあえずの連続クリック」をやらせているのかもしれない。しかし、それにしても。。。

(さらに、つながるようなつながらないような脱線)

大学における情報教育の、理想と現実の溝について、土曜日からずっと考え続けているような気がする。そして考えれば考えるほど、広大な荒地を前に、鍬一つ持って立ち尽くしている農夫のような気持ちにならざるをえない。

早稲田大学総長を勤めた奥島孝康先生が、昔講義で、「大学というのは君たちを大人として扱うところだ」といったのを、今でも鮮明に記憶している。実際には学生に対して、「お前らもっとちゃんとしろ」ということを言いたかったんだと思うが。全般的に早稲田は当時、学生サービスのよくない学校と思われていたけれども、大人扱いされた(ほったらかしにされる)環境の中で、好き勝手にさまよいながらも、なんとなくみんな、それなりの社会性を持った人間に育っていくような環境だったような気がする。

そういう体験に基いた大学観は、稚内で(良くも悪くも)ずたずたに引き裂かれたが、敬和では敬和でまた、別のことを考えなければならないようだ。

Gyaoで個人で作る生放送番組が放送開始 – CNET Japan

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インターネット関連ニュースに、「直感的に面白くなさそうと感じた」というコメントがあった。これまた直感的に、同意見である。でもやり方次第なのだろう。

GyaOジョッキーは、参加者がディレクター兼キャスターを務める番組を生放送する、個人参加型番組。毎週月曜日から土曜日の22時より深夜24時まで、個人によるオリジナル番組を、都内の簡易スタジオより生放送する。

最近見てないので的外れだったら申し訳ないが、基本的にGyaoというのは、テレビ放映されるものと同等の知名度のある「良質な」番組が、テレビと同じ広告モデルで、配信できる、という性格のものだ。少なくともそういうブランドイメージだと思う。だから、Youtubeのようにゴミを垂れ流させて、垂れ流されたゴミの中にいいものがあるのかも、っていうやり方は、なかなか取れないし、それではついてくる視聴者がいない。したがって、視聴者の中から良質なものを選抜して、その人にスタジオを使わせて、時間帯も決めて、というやり方になる。

MXテレビが最初にチャレンジし、ほとんど話題を呼ぶことなく終わっていった(もしかして終わってない?)取組み、素人に夜中の枠を使わせちゃおう、っていうやり方をちょっと思い出した。当時は少なくともみんなテレビに「プロ」を求めていたので、ダメだった。今はその辺が相対化している可能性はあるけれど。

どれぐらい「質」を管理し、「量」、つまりチャンネル数を確保するか。その辺が鍵になるかもしれない。簡易スタジオを使えるのは、ユーザの人気が高いものだけで、そこには広告もつくが、そのジョッキーには報酬も出る。その下には広告もつかない、一定の審査基準をクリアしただけの玉石混交なチャンネルが自宅スタジオから放送される。という「成り上がり」システムにしたらどうだろう。