新発田の学生達


4月から新潟県新発田市にある、敬和学園大学で非常勤講師をやることになった。
東京駅から新潟まで、新幹線で2時間ちょっと。敬和学園までは、そこから電車で30分(プラス駅から学バス)ほどかかる。稚内から札幌まで、5時間の旅を何度もしていた立場から言うと、たいしたことはないのだが、まあそれなりに往復移動で体力を吸い取られそうだ。
今回は車で移動したのだが、関越トンネルを抜けると、本当に「雪国」になった。
今週はガイダンスで、ゼミ所属の学生たちと履修相談をした。驚いたことに、学生たちのPC使用率は異様に低い。学内施設は45台のPCだけで、しかもそれらもあまり使われている形跡がない。学生に聞いてみると、重たいのでノートPCはあまり持ち歩かないそうだ。教員も学生もPC依存症にどっぷりつかっているWAKHOKを当たり前だと思っていたけれども、世間の常識っていうのはそんなもんなのか。。。
敬和はキリスト教主義に基づいて、しっかりした教養教育を行うというコンセプトの学校だ。実学とか即戦力とか、そういう発想には、少なくとも理念的には立っていない。ゆるぎない教養人であれば、卒業後仕事に必要な「スキル」はすぐに習得できる。そういう前提に立っているように見える。
そう、WAKHOKの考え方と全く正反対だ。WAKHOKは、形式的な教養が学生をスポイルしてしまうという考え方だと思う。常に実践的かつ先進的であることを志向している。
いずれにせよ、そうした「哲学」は、おおむね大学サイドの都合によって作り上げられている面があり、必ずしも学生の将来にどのように作用しているか、あるいは少なくとも、学生にどのように受け止められているかを、きちんと評価した上で作り上げられているわけではないように思う。ネパールやバングラディシュの学校と話していると、彼らがいかに市場競争力と教育の質の向上に取り組んでいるかがよくわかる。彼らは、学生の需要にどのように答えるべきかという出発点に立っている。実際には学生に対する管理は結構徹底していて、別に学生にこびへつらうわけではないのだけれど、マーケティング戦略は非常によく考えられていて、いい意味での「顧客満足」が追求されている。日本の大学はその点、供給サイドの都合でやり方が決まっていて、あまり市場志向的ではない。大学全入時代の激しい競争を勝ち抜くために、というお題目はよく唱えられていて、そのためにみんな努力しなければという掛け声はあるのだけれど、結局どんな手を繰り出すかは、学校や構成員の都合(プラス財力)が非常に大きな制約条件としてのさばってしまっているので、実際には中途半端な改革にとどまってしまっていることが多い。
敬和の学生たちは、このカリキュラムで学んで、どんな将来展望を持つのかが非常に不明瞭であるように思えた。WAKHOKの学生たちにもその傾向はあるが、それはITの領域で自信を持てないからに過ぎず、実はWAKHOKでの「そこそこ」は世の中では「結構すごい」ぐらいにはなるんだという気持ちを、持てばいいだけなのであろう。そうした自信創出の仕掛けが、WAKHOKには欠けている。そうした点を補うのが、敬和学園のいうような「人間教育」「教養教育」なのかどうか、それはよくわからないが、両者の「哲学」は何か相互補完的であるように感じている。敬和の学生は、大学の掲げる旗印の意味を、おそらくほとんど理解していないだろう。少なくとも学びのプロセスの前に掲げられるものとしては、ちょっと難しすぎるかな。卒業した後、じわじわ効いてくるのかもしれない。
留学生たちは、もっとはっきりした専門性、あるいは世の中で通用する「実学」を求めているように感じた。「日本の大学」を卒業しましたというだけではほとんど評価されない、という彼らの意見は、もっともだと思った。また新しい宿題を抱えたような気分になった。
新潟なのに、帰りの新幹線で、富山のますずしを食べた。

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