先日本屋で、武部勤について書いた大下栄治の本を見かけた。昔、『永田町の都の西北』(たぶんそんなタイトル)という本を祖父からもらって読んでいたので、ちょっと興味を持った。今度買うことになりそう。
基本的に政治家の立身出世話で、あまり悪いことは書いてないのだけど、彼らがどういうプロセスでチャンスをつかんできたのか、なんとなく想像できるような内容だ。「あ、ここ大事だ」というところで、彼らはことごとくその匂いをかぎ分けて、ものすごい集中力を発揮する(少なくともそういう話になっている)。
学生を見ていると、そういう嗅覚のある人ない人が、ある程度見分けられるようになる。でも自分が嗅覚のある人になれるわけではないし、嗅覚のない学生に嗅覚をつけられるようになるかというと、それもできない。ただ観察しているだけ。ごめんなさい、というわけだ。
僕の嗅覚も、いろんな匂いをかぎ逃して(?)きた。振り返ればいくつかは、思い出したくない記憶がよみがえってくる。で、今もまた、何か僕の嗅覚が試されているように思う。相変わらず鼻の働きは鈍いような気がする。
最善の授業に関する最悪の授業による最善の授業
「教育技術」でコメニウス『大教授学』を語る。毎年恒例。今年で4年目。これでも毎年少しずつうまくはなってると思うんだぜ、○○さんよ。
最善の教授法に関するコメニウスの言説を、最悪の教授法たる「講義法」、いわゆる「教え込み」で進める。ゆきみの教育学人生14年のすべてはここに凝縮される。明日死ぬ、あるいはこれが最終授業だとすれば、教育学の授業で何を伝え残すかといえば、迷いなく今日の『大教授学』だろう。
「講義法」が最悪なのはわかっているが、この内容を伝えるのに、これ以外どんな方法があるというのだ。最悪…