卒業生凱旋講演


ネパールから無事帰国。
公式レポートを書いたので、こちらに非公式レポートの残りを。
27日:朝目覚めると、2人のGタムが隣のエクストラベッド(シングル)を分け合って寝ていて、ちょっとびっくり。ネパール人にとっては普通の光景だそうだ。
インターネットカフェ(といってもPC2台しかなかった)で、配布資料の印刷。その後学長とともにタメールのタイ料理「インヤン」で昼食。普通に辛くしてくれっていったのに、日本のタイ料理店よりも甘いソムタムが出てきてがっかり。帰り道、後日訪問するMICに行っていたGタムが、MIC訪問中の哲学の先生を連れてきていたので合流。彼はノマド哲学者なのだそうで、中国語で本を出していた。奥さんは北京での元教え子。恐らく一回り以上年下だろう。この先生は、セメスターごとに中国やネパールを渡り歩いているようだ。たくましい。
一部印刷忘れなどもあって焦ったが、なんとかプレゼン会場のハイアットへ。この会合はComputer Association of Nepal(ネパールコンピュータ協会、CAN)のミーティングで、今回は「Wakkanai University」との共催ということになっていた。文部次官など政府関係者も集まり、かなりものものしい雰囲気。学長はゲスト代表ということで、政府関係者や司会と並んで、会場前方の「来賓席」へ。Gタムの緊張感が高まる。
WAKHOKの発表は三番目。まず学長から短いスピーチ。関係者への感謝と、大学の紹介、訪問の目的を述べた上で、詳細をWAKHOK初のネパール人留学生Gタムに譲ると締めくくった。その間、プロジェクタの接続がうまくいかず、一戸は壇上でドタバタ。結局CANのPCを借りてのプレゼンになった。
Gタムのプレゼンは、WAKHOKのIT教育の特徴とそこで行った自分の研究をメインにして、最後に協力内容について提案するもの。資料を英語で作成した上で、「みんなネパール人だし、ネパール語でいいでしょ」といってネパール語で発表した。学部卒業生の発表が、こうしたミーティングでどれだけ評価されるのか、彼自身もかなり不安げであったが、実際にはかなりウケた。「この研究で学長賞を受賞した」という部分については、大きな拍手が会場で沸きあがった。質問も多数(でもネパール語)。
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レセプションでは、名刺交換の嵐。学長、僕、ゴータム、3人がそれぞれに、多数の関係者に取り囲まれた。Japan Moneyに対する期待もあるのだろう(Moneyの面で僕らに期待されても困るのだが)。だが、それとは別に、多くのCollegeから、今までアメリカ留学をメインにしてのだけど、ぜひ日本にもチャネルを広げたいという趣旨の発言があった。それだけ門戸が閉ざされているということだと思う。
「世界の中の日本」という章が、子供のころ社会の教科書にあった。「国際社会の中で席にある役割を」とか「アジアのリーダーとして」とか、耳障りのいい言葉を聞くことも多い。しかしそんな美辞麗句通りに、事は進んでいない。実際には、ビザ取得には高いハードルが課されていて、相当に高い日本語能力、べらぼうに高い預金残高が求められる。結局日本は、日本語で暮らせるごくごく少数の裕福な外国人しか、助けるつもりがないのだ。それは言い方をかえると、日本人の生活空間に日本語以外の言語が多数のさばることを望まないということであり、単純労働の市場を外国人が荒らすことを望まないということであり、貧しい人たちが入ってきて治安を乱すことを望まないということでもあるだろう。そういう痛みを分かち合う「リーダー」になりたくはないということだ。えばってにこにこしていたいのだ。
レセプション終了後、ホテルへ。Gタムはこの日も、親戚の家に向かった。ホテルに戻った後、一人でタメルを散歩。すでに街は暗くなっていて、首都カトマンズは、弘前か稚内かというほど。ぐるっとまわってきてホテルに戻ると、敷地内のカジノだけにこうこうとネオンが輝いていて、中を覗くとギャンブラーたちの血の気が、フロアに充満していた。
(つづく)

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