わっくほっく徒然日記: わくほくではありえないシステム?

わっくほっく徒然日記: わくほくではありえないシステム?
「きらり」のエントリーで、wakhokのシステムの柔軟さをやや批判的に書いたのだが、案外東京サテライトでそういうことが評価されていたりして。
サテライトの運営も、Face to faceでやってる「ほんわか稚内システム」を移植した形になっていて、僕はハラハラしてしまうのだけど、東京に稚内を「輸出」すると、東京の人たちはそこに「東京で忘れられがちなもの」を見出して、意外と喜んでくれるということかなあ。
そうじゃなくて、実態がそういうこじんまりとしているだけか。

「メディアと社会」総合研究

稚内北星学園大学では、4年次必修で「総合研究」という科目がおかれている。ようするに、「卒論」なのだけど、「メディアとソフトウェア」分野ではプログラミングなどの成果物、「メディアと表現」分野では、作られた作品が主たる評価の対象となるので、こういう名前になっている。でも、「卒業研究」の略語である「卒研」という言葉も使われていたりして、あまり一貫性がない。
僕の所属する「メディアと社会」分野でも、さまざまな成果物の形式を排除していないものの、これまで「論文」以外の成果物は出てきていない。
僕は、分野ごとに分かれる成果発表の形式にも不満があるし、そもそも4年生になっていきなりこんな大仰な取り組みをさせることにも、毎年違和感を感じている。「分野ごとに」というやり方は、すでに下の学年ではカリキュラムが改正されたけど。。。
と、この話を書き始めると、だんだん過激になってしまうのでこの辺でやめておこう。。。
明日は朝から、「メディアと社会」の発表会だ。
僕のゼミからも、6人が登壇する。お楽しみに。。。(といっていい)?
毎年4年目になって「社会」に流れてくる学生たちの中には、学部教育の内容とは全然関係ない「なんじゃそりゃ?」というテーマを設定する学生がいる。そういう学生たちが必ずいうのは、「情報と関連付けないとだめなんですか?」という言葉。僕は「そうだ」と答えるけれども、そうなった時点で、実はもはや手遅れだ。
要するに学部教育で学びとって、興味を持ったことが何もないのだ。3年間行われてきた授業を相互に関連付けて理解し、その中で自分なりの考えを深めてきたならば、およそそんなに外れないところでテーマを見つけ出すはずなのに。それらは、僕らが行ってきた教育内容を映し出す「鏡」なのだろうなあ。
ちなみに僕も大学3年のときに西洋法史のゼミで、なぜかマックス・ウェーバーを読み、法学部の王道である法解釈学に疑念を持った経験があるので、そういう学生たちの気持ちはなんとなくわかる。でも、これだけ間口の広い「情報メディア」学部で、それでもあえて「このテーマでいいのか?」と思わせるテーマでの「異種格闘技」戦を選んだのならば、それなりに理論武装をして、「そこまでいうなら仕方がない」とみんなに言わせてほしい。

バツの悪い再会代行SNS

どうもGREEよりもmixiのほうが、元気ができてたようだ。
レイアウトが整理されていないせいで、ついつい余計な情報まで見えてしまうGREEが、かえって個人的には好きだったのだけど。がんばって整理してしまったせいで、特性が失われてしまったような気がする。
高校の同期とか昔WEBチャット草創期の知り合いと、最近mixiで再会している。
この前口頭試問をやった別のゼミの学生が、チャットには、日常生活とは異なる「一期一会」があると書いていた。
街で再会しても「ああまた会った」という程度にしか思わないのに対して、匿名のインターネット上では、再会の感動が非常に大きいのだそうだ。あ、二度会ってるから「一期一会」じゃないか。
僕が思ったのは、それって「稚内」感覚だなってこと。昔の友達と新宿駅ですれちがったことは何度かあって、そういう時には少なからぬ感動があった。稚内だとたしかにそれはない。店でばったり会っても、またすぐ会いそうだしね。いや、でも普通の勤め人には、稚内でも同じような現象が起こってるのかもしれない。
さて話を戻して。
この「新宿駅での再会」で困るのは、お互いの記憶の度合いが必ずしも一致しないこと。
記憶があいまいでも、結構仲がよかったというならばまだいい。友達というより知り合いというのが妥当な関係であった場合には、特に大変だ。「えーと、お名前は。。。」とぎこちない会話になり、相手が明確に覚えていたりするとこちらの立場が。。。ということになる。
SNSはこの「微妙な知り合い」との再会にはすごく適している(mixiで再会した人がみな「微妙な知り合い」というわけではないです)。間接的で、しかも白々しい「ひさしぶりー」といった会話を交わすこともなく、「足あと」だけが残っているってこともありうるわけだ。もちろん「足あと」が残っているということに、「どういう気持ちで無言で足跡だけ残したんだ?」という不安感が生じる可能性もある。でも、彼/彼女も元気でやってるんだなあという生存確認ができて、多少過去の良かったり悪かったりする記憶が呼び戻されるという時間を、それぞれすごすことができる。
もう一人、「バーチャルコミュニティ」を研究したこれまた別のゼミの学生は、SNSを会員制の「ムラ」社会と称し、機能分化した、その場限りで都合よく選ばれたネットコミュニケーションのひとつとして、とりあげていた。たしかに、会員制という意味ではそうなんだけど、内側にいる10万人のユーザが感じているものは、全く違うものではないかと思う。
友達と一緒にいて、その友達の別の友達が現れて、彼らの話している会話に立ち入らないけど中身が微妙に聞こえちゃう状況。そんなに興味なかったんだけど、電車の向かいの席に座っている人の本のタイトルが見えちゃったり、ヘッドホンからもれる音が聞こえちゃったりして、妙に気になってしまう状況。
そこそこ素性を明かしながら、微妙に連なるネットワークだというのがポイントになるんじゃないかと思う。
「袖触れ合い」ネットワーキング、というのが、正直な実感。