過去からの連続

mixiの早稲田コミュニティで知った、東京エイティーズを読みはじめた。コミックを読むのは何年ぶりのことだろう。
舞台は80年代前半の早稲田なので、80年代最後に入学した僕から見ると結構上の世代の話なのだが、何かと親近感のわく設定になっている。これは30代が主たる読者層なのだろうか。
「懐かしい」ということだけでなく、過去から現在に、自分が連続した存在だということに、あらためて気づかされる。外見も態度も立場も、時間とともに変わっていくし、自分のすごした場所の風景だって、どんどん変わっている。早稲田の周りの風景もだいぶ変わったし、この漫画が「携帯電話がなかった時代」を強調している通り、電話という学生生活をめぐる基本ツールの存在も大きく変わった。僕の場合は、田舎に住まないはずだったのに、なぜか都会から遠く離れた場所で、5年という時間が過ぎようとしている。
でも自分の内面は、そんなに変わってなくて、過去の記憶もかつて考えていたことも、案外頭の中に残ったままだし、人格も案外なにも変わっていない。こんな風に当時の自分が変わることなく、30代をすごしているとは、まったく考えもしなかった。
僕の周りにいる学生たちも、きっと似たような形で、いずれ同じことを思うことだろう。でおそらく、たぶん今の僕と同じように、少しの「後悔」を伴いながら、過去と現在が連続していることを感じることだろう。「そうなるんだよ」ってことを知らせてあげたいけれど、知らせてあげたところで、たぶん何が変わるわけでもない。
この作品の主人公は「俺は変わった」と言っている。「変わった」ということと、「変わってない」ということは、表裏一体なのかもしれないとも思う。僕の場合は、「30過ぎたら変わってるだろうなあ」と思ったけど、大して変わってなかったということであり、主人公の場合は「自分は過去から連なって生きている」ことを前提にしていたけれど、それがかえって過去の記憶と対峙したときに「変わってしまった」部分を浮きだたせている。

シャラポワにロシア語を習いたい

Papu’s-Blog::競争率13.7倍から。
シャラポワは皆さんより若いのですよ。。。
でもまあ学生たちの気持ちはわかる。
かつて「ニセ学生マニュアル」という本があって、どこの大学でいつどんな文化人が講義を持っているか、情報が載っていた。ミーハーな僕も、さすがにそれを見て他大学の講義にもぐるということまではしていなかったが、他の学部で興味を持った講義を聴きに言ったり、専攻分野で有名な先生の他大学の講義にもぐったこともある。
ちなみに、シャラポワは英語で教えると思うので、ロシア語を習いたい人はまず英語を勉強してください。「来てもらっても学生が対応できるかどうか」というセリフは、現状に妥当しているとともに、先生の免罪符にもなりえます。僕らはいい内容を受け入れる素地ができていますよ、早く対応してください、という姿勢ができていないと、教員もその状態に甘えてしまうのです。「英語で教えてくれるんですか。なるほど。語学を英語で教わるくらいならば、なんとかなりますよ。」と少し背伸びしたらいえるぐらいに学生がなってないと、万が一シャラポワ招聘の糸口をつかんでも、前には進まないでしょうね。
卵が先か鶏が先か。

manbow!manbow!manbow!:提案型「きらり先輩」

提案型「きらり先輩」
manbow!manbow!manbow!から。
「きらり」は稚内北星のWEBに載っているコーナーなのだが、なかなか候補者が上がってこなくて担当者が苦労している。
「提案型」というのがよくわからなかったが、要するに大学側が「きらり」と光った卒業生を「一本釣り」するのではなくて、自薦/他薦で出てくるということのようだ。
むしろそれは歓迎しているし、その旨、WEBにも書いてあるのだが。
要するに卒業生から見て、それだけ親しみをもてない存在なのかな。それと、大学側の情報発信がいつも泥縄というか、場当たり的というか、よく言えば柔軟なのを在学中によく見ていたためかもしれない。こちらは、「言ってくれればどんどん紹介するよ」と言っていても、有効なコミュニケーション・チャンネルを持たなくなって、いまさら「俺を紹介して」とか「彼を紹介して」とかいいにくいのだろう。たしかに、気軽に話せる関係があってはじめて、「今度僕も紹介してよ」と言えるわけで、かしこまって「ぜひ次回私を取り上げていただければ幸いです」と大学にコンタクトするのは、相当敷居が高いかもしれない。
この関連で学生とのコミュニケーションで問題だと思うのは、二点。
1.システムができていない
小さい組織なので、いきおい「あらかじめ決めておかなくても、それぞれ事情に応じて個別に対応する」ということが多い。学生から見ると、こういう対応は非常にわかりにくい。逆にこういう柔軟性によって救われることもあるのだが、原則が明確化していないことで、右往左往している学生をよく見かける。きちんと決まった原則によって、自分が黙っていると不利益を受けるということがわかっていれば、それなりに学生も動くはずだ。個別の教員が学生たちの考えを聞いて、決まったシステム・原則の中での行動指針を与えるのはいいだろう。しかし小さい組織は、そういう行動が全体のシステム・原則の中に入り込んでしまうから厄介なのだ。そうなると逆に全体としては原則が見えにくくなり、普通に行動できる人々が困ってしまうのだ。
2.学生は指導する対象であって、自発的な意思を持たないと考えている
上とも関係するが、学生には意思がなく、こちらが何でも手取り足取り教えなければならないと考える傾向が強い。これはたしかに実態としてそういう面もあるのだが、学生の自主的な活動を促し、それをサポートしていこうという姿勢が欠けてしまっている。卵が先か鶏が先か。いずれにしても、学生の自主性が発揮されていないと思うことは多い。さらに問題なのは、その先に「学生には何も任せられない」ということを超えて、「何でも教員の都合に合わせて決めてしまう」ということもたまに起こる。どうしても自分たちに甘くなってしまうということだろう。そうなると逆に、「先生に頼めば何とかなる」と思っている学生の行動も起こる。
以上二点は「きらり」とは全然関係がないようでいて、僕の頭の中ではつながっている。つまり、こういう原則で動いている組織内部では、適応できる人たちはFace to faceでのコミュニケーションにより、うまくやっていけるのだが、その組織の外に出ると、途端にどこにどのようにコンタクトしていいのか、わからなくなる。組織としては、別にそんな他人行儀なことをしなくても、組織全体として対処しますよ、というのだが、普通の卒業生から見たら、そんな大げさなことはしたくないだろうし、誰とでも楽しく話せるような和気藹々としてコミュニティであった大学も、そもそもよく考えていれば知らなかったことも多いし、ああ他人なんだなあと思ってしまうことのほうが多いだろう。
ちょっと前の日経ビジネスに金沢工大の「CS対策室」の話が出ていた。
その組織がちゃんと機能しているかどうかはわからないが、大学が学生や卒業生や受験生と、どのようなチャンネルでどんなコミュニケーションをするべきなのか。私立大学はいま受験前の学生に対する一方的な宣伝には力を注いでいるが、特にいわゆるカスタマーサービスや顧客満足の向上という点では、まだまだこれからという段階なのだろう。
早稲田も父兄に学生の成績を送るようになったようだ。
世間は学生に対する管理を強める傾向にあり、父兄を顧客ととらえるならば、それはもっとも話だということになる。しかし実際にサービスの提供を受けるのは学生たちだ。彼らがどのような行為に満足し、成長していくかは、在学中の時間だけでは計れないものもある。僕が授業でやっていることは、たぶん学生生活の中でそんなに関心を持てるような事柄ではないように思うが、あとになって「ああこれやったなあ」と思って、もう一度勉強しなおしてもらえればいいなとも思っている。だけれども、「未熟な彼らにはちゃんと物事を判断できないから、何でもこちらが決めてあげるのだ」という姿勢は、つねに「大学のほうが都合のいいように決めるんだ」という方向に転じやすいのだということを、よくよく自覚しなければならないと思う。

InTheSpiral: キーワード広告が区別できない人々:キーワード広告が別にイヤじゃない人々?

InTheSpiral: キーワード広告が区別できない人々:キーワード広告が別にイヤじゃない人々?
また弟の後追い。
趣味趣向も違うし、性格も違うし、東京にいる間もめったに会うことのなかった弟なのだが、ことネット関連や韓国関係での関心事項は、なぜか似ているように思う。もちろん、拾ってきたネタについての考え方まで完全に同じわけではないけれど。
キーワード広告を広告として認識していない人がこれほど多いとは思わなかった。しかし、広告であっても役立つ情報ならば別にかまわないと思っている人は多いだろう。Googleさんにお願いして、Googleさんが自分のほしい情報をくれるならば、それがGoogleさんのサーチエンジンが探したものであれ、Googleさんのアドワーズさんが「これが欲しいんじゃないの?」と(実は)クライアントさんに言わされているものであれ、ユーザは「裏事情」に関心ないということかな。
実は大学の広告も、アドワーズでやってみたら?という意見を以前言ったことがある。レアなITコア層(高校生では本当にレアな人たちだ)への訴求を狙っている稚内の場合には、一般的な受験雑誌に高い金を払って掲載してもあんまり効果がないので、ニッチというかレアな高校生の「検索行動」に合わせたアドワーズをやってみたらどうか、という話だ。いまいち、関係者の反応がよくなかったのは、ひょっとしたらこの仕組みがどのように動いていて、どのようにひっそり我々の「検索行動」に影響しているのか、関係者の皆さんもあまり自覚していないということかもしれない。
アドワーズは日本人のアイデアではないと思うが、日本人の性格にマッチしているような気もしている。
日本のサイトでは、派手な広告は嫌われ、おとなしくつつましやかな広告が好まれるように思う。
控えめになるように努力している業界関係者がいるからそうなっている、というのがうちの弟の分析だが。
各国のYahooサイトを順に開いていってもらうとわかるが、アジアの他のYahooでは、トップで「飛び出す」広告を多用している。欧米は日本と同じく割とおとなしい。中国や韓国の場合には、飛び出す広告が画面全体に飛び回って、ポータルなのにしばらくおとなしく見てないとその先に進めない、というものも多い。
これは、各国のクライアントの発言力の違い(つまり日本の場合は業界関係者が努力して、サイト内の「秩序」(?)を保っている)なのか、ユーザの嗜好の違いなのか。両方なのか。

グーグル検索おそるべし–ウェブでの小論文公開が名誉毀損裁判に – CNET Japan

グーグル検索おそるべし–ウェブでの小論文公開が名誉毀損裁判に – CNET Japan
Matimulogからたどった。
僕が担当している4年生の一人が、キュッシュの著作権問題について卒論を書いている。
キャッシュのような「一時的蓄積」については、一部の態様について複製権の対象とするべきだという点で国際的に一致を見ているが、「一時的蓄積」が「複製」に含まれると解した上で権利制限を設けることでバランスをとろうとするアプローチと、「一時的蓄積」の中にも「複製」に含まれるものと含まれないものもあるとするアプローチがある、というところまではたどりついた。さて、ここから先どんな結論が出てくるか、楽しみだ。
立ち戻ってこの記事。
Googleのキュッシュは、もはや「一時的」蓄積というようなものではない。
この記事でははっきりしないが、論文を削除した後も検索すれば「出てきて」しまう状態だったという。Googleのキュッシュなのか、話題になったのですでにあちこちに情報として転載されてしまったのか。
もちろん、最初に掲載した者の名誉毀損の成否が、このGoogleキャッシュの存在によって成立する方に傾いたと単純にいうことはできないし、公開した者が一次的責任を負うべきかどうかという問題の設定自体に変わりはない。
しかし、「取り返しのつかない」事態が発生するかもしれないキャッシュの問題について、著作権法の解釈としては、「複製」に当たる場合もあるしあたらない場合もあるという程度の整理で、問題ないのだろうか。もう少し類型的な整理をして、予見可能性を高めるべきではないのか。制定法がどこまで新しい技術に対応して「親切な」制度を設計するべきなのかについても、考えさせられること大である。
ついでに。
前に白田先生のWEBで知ったもの。
Wayback Machine
数年前のWEBページの内容が保存してあります。
これもまた「ありがたい」サービスではあるのだけれども、90年代に軽い気持ちで公開してしまった過去の過ちが、容易に出てきてしまうわけだ。
この便益を社会が享受するためには、人々がそれなりの知識、見識、覚悟を持って、ネット社会で活動するようにならなければならないということだろう。しかし、「学生時代に法学を専攻し」、「名誉毀損を教えている」人も、この「ついうっかり」をやってしまったというわけだ。

ISMSの形骸化

まるちゃんの情報セキュリティ気まぐれ日記: ISMSの形骸化
トーマツの丸山さんによる、ISMSについてのエントリー。
「ISMSははじめから形骸なので、形骸化しようがない」
画面の前で笑ってしまいました。
当地の「基幹産業」である建設業界も、ISO9000シリーズを、入札資格を得るために取得している企業が増えていますが、まさに「形骸化」が進んでいるようです。
それでも「何もしないよりはよい」と、他人事としてはいえるのですが、業務プロセスの見直しを伴わないと、従業員から見ると、無駄な約束事や無駄な宿題が増えるばかりで、余計な負担ということになってしまうようです。つまり、トップがこの制度の意義をきちんと理解していないと、下の人たちが振り回されて終わるということでしょう。
タイムラグが相当ありましたが、個人情報保護法対応の波が当地稚内にもやってきたようです。
来月、某業界の研修会でお話をすることになりました。
「心」の入った対応が少しでも促されるようなお話をしたいものです。

<趙英男の日本文化ルポ>3.「夜の文化」の韓国留学生たち

つづいて、<「3.「夜の文化」の韓国留学生たち」
昼は日本語学院に通いながら勉強している女性も多い。私には、他国で一生懸命勉強している留学生と異ならないように思えた。日本の「夜の文化」で働く留学生であるわけだ。しかも、それらは泣き言を言ったりせず、むしろ稼いだ金の一部を本国に仕送ったりまでしている。酒場のホステスなどといった前近代的な偏見で、それらが「捨てられた人間」にされる理由は少しもない。
それらの愛国心を褒め称えて銅像まで作ることはないものの、少なくとも、われわれはそれらを励まし、受け入れるべきだ。私も中学3年の娘を育てている父だ。非公式のチャンネルを通じて行なわれている韓日交流についても、偽善を捨てて、きちんと見るべき部分を見るようにしよう、と提案したい。いかがだろうか。

歌舞伎町や赤坂での留学生のそのような就労は、日本政府によって認められたものではない。もちろん、ホステスとして就労ビザを取ることこともできない。東京のコリアタウンの今日の繁栄は、不法就労を前提にして努力してきた人々の「努力」の結果である。
日本は、東京は、「深い懐」で彼らを受け入れて、育ててきたのか。ぜんぜんそんなことはない。歌舞伎町で「ヨン様」グッズに群がっている人たちは、自分たちが楽しんでいるその町が、そんな脆い基盤の上に成り立っているとはまったく思いもしないだろう。歌舞伎町の不法就労外国人排除を目指す石原都知事を支持することに、彼女たちはおそらく自己矛盾を感じないのではないかな。

<趙英男の日本文化ルポ>4.靖国神社

弟のブログから、「<趙英男の日本文化ルポ>4.靖国神社」をみつけた。テレビでは「天国の階段」をやっている。みてないけど。グォンサンウは、ユースケに似ているような気がして仕方がない。
日本人は、韓国人のように率直でさっぱりした話し方をしない。BoAや『冬のソナタ』などを受け入れる韓流について「われわれが間違っていました。お赦しください」という日本式の表現なのだ、と裏返しで受けとめたら、いかがだろうか。待望の2000年代、靖国が足かせになってはならないだろう。
とあるが、そういうメッセージはまったくないと思う。
ひたすら「Beg the question」なのでしょう。あるいは「もういいじゃん」っていうメッセージではあるかもしれない。