「郷土愛」の弊害


「郷土愛」の弊害ICHINOHE Blogかつて僕が高校生だった頃、青森の地元紙では、県内のどこの高校の誰がどの大学に合格したか、合格発表を受けてその情報が新聞に載った。早稲田大学に合格して自信満々だった僕は、ぜひ新聞に載せてほしかったが、早稲田は個人情報を新聞に流すようなことはなかった。今思えば当たり前のことだが、当時の個人情報に関する意識は、その程度だったのだろう。
その情報欄と同じものだったかどうか定かではないが、地元弘前大学や青森大学については、県内の高校だけでなく、全国のどこの高校から地元の大学に合格したかも掲載されていた。沖縄からも青森の大学に進学している人がいて、「こんな寒いところに沖縄からやってきて、生きていけるのかなあ。よく決心したなあ。」と思った。北大出身の母親は、「案外暑いのところの人の中には、雪が降る街がロマンティックだとあこがれる人もいるんだよ。」と言った。なるほどそうかもなあと思った。
月日は流れ、そんなのんきなことを言っていた僕は、青森よりさらに北の稚内にきて、「こんな寒いところにある大学」で仕事をしている。大学経営をめぐる環境の厳しさは、僕が子供の頃と比べるまでもない。厳しい環境にあって、「こんな寒いところにある大学」をどのようにプロモーションしていくのか。
1.こんな寒いところにあるけどすごい大学
2.寒いけど素敵な自然に囲まれた北海道の大学
3.寒いけど素敵な自然に囲まれた北海道にあって、なおかつすごい大学
むろん3が一番いいのだが、実は「素敵な自然に囲まれた」というのは、北海道の外には訴求できても、道内の人の心にはほとんど響かない。なにせ、札幌の人ですら、基本的にはみんな「自然に囲まれ」て暮らしているのである。そうするといきおい、力点は1の「すごい」の部分に置かれることになる。
市内某所では、現在大学に対する今後の支援内容について、議論が行われている。僕は議論の対象になっている組織の人間であるが、そこに参加している人間ではないし、それに影響を及ぼすつもりもない。ただ、個人的に思うことをささやかに書いているだけである。といっても、多少奥歯にものがはさまったような言い方になるかもしれない。
稚内という街が魅力的であることは、稚内北星学園大学の学生にとって望ましい状態であることはいうまでもない。理想はYale大学のあるNewheavenにあった。アメリカ北部にあるこの街も、NYから一時間程度であったが、小さな街であった。冬には結構雪も降るようだ。大学のキャンパスは街の中にあって、その周辺には学生向けの書店、コーヒーショップなどともに、大学付属の美術館、劇場などがあった。市民向けの商店街は別にあったのかもしれないが、少なくとも学生たちはほとんどそこで完結して生活しているようだった。よく考えてみると、なんでもそろう街という感じではなかったが、文化が生み出される雰囲気は漂っていた。ちょっと違うが、早稲田大学周辺の町並みにも、もう少し世俗的ながらそういう雰囲気は感じられる。
むろん理想は理想である。単科大学の稚内北星の規模で、学生だけを相手にした商売がそうそう簡単に成り立つとは思わない。しかし大学のある富岡地区をいかに発展させ、大学を中心とした街づくりをするのか、何か皆さん考えていただいたことはあるのでしょうか?富岡地区は勝手に住宅地として拡張を続けているが、そこにはトータルな街づくりプランが反映されているのでしょうか?
「一見さんお断り」の京都の町でも、外から来た大学生は大事にされる、とよくいう。本当のところはどうなのかわからないけれども、観光の街京都では、学生を長期滞在の「お客様」として、大事に扱うという所作動作ができているということではないのだろうか。観光リピーターキャンペーンをやっている稚内も、長期滞在の潜在的「観光大使」である学生たちに対して、同様のホスピタリティを発揮してなんら問題ないはずである。たとえ大学周辺を「大学城下町」として育てるのが無理であっても、じゃあ中心街に学生が集えるような交通手段は、十分に確保されているのでしょうか?みんな車ですよ。「イチオシWAK」という大学ウェブページ上の企画で、学生たちが市内の飲食店を取材しているのだが、どうも中央地区の飲食店に学生たちがあんまり出入りしていないようだ。交通手段がなかったらそうなるだろう。そんな大げさなことをやらなくたっていい。この小さな街で、毎年入ってくる大学生がいることの経済効果を考えてみたらどうだろうか。結構学生たちは、コンビニでものすごいポイントをためてますよ。コンビニ一人勝ちは、街の人も買っている当の学生も、あんまりうれしくないはず。
大学を街づくりにどのように位置づけるのかという問題が、今の議論には欠けている。といっても、市民講座のようなもので短期的な成果だけを求めると、企画した人だけが「やったような気」になるだけで、あんまり意味がないだろう。一番大きいのは街の人の意識と大学の意識のずれである。大学の企画する「高尚」な企画を今のところ市民は歓迎していないし、逆にあまりに世俗的な市民のニーズに大学がこたえる用意もない。「文化のにおい」が出てくるような街づくりがなければ、結局何も成果をもたらさない。といってもそんなに高尚なことじゃなくてもいい。学生が街に出て活動しやすくすること。端的にはこれだけだ。一部の興味ある学生や教員が、市民と交流するのではない。でもどこかの大学のように、地域対策で教員をみんなお祭りに強制参加させるのも意味がない。自然に人の交流が生まれるためには、小さな勉強会がいつもどこかで開かれていて、その情報がいろんなネットワークを通じて参加していない人にも流れていて、そこに対するアクセスが容易であること。まずその辺を側面支援することから始めたらいいのではないか。この面でも市民の大学へのアクセス手段が限られていることについて、もう少し考えがあったほうがいい。
今話題に出ている「カンフル剤」(地元の人は地元紙参照)はほとんど意味がないだろう。実態がどうあれ、「さいほくの街」というのは、外から見れば「住みたい街」の上位にくることは決してないところだ。谷村志穂にいわせれば「色のない街」である。この街が、上に見たような「大学を活かしたまちづくり」を展開するか、大都会に突然変異をしない限り、ほとんど意味がない。地元の人たちの「郷土愛」は、自分たちの街の客観的な立場を見る視点を曇らせている。たしかに稚内は外の人がイメージするほど大変なところではない。しかし外からどう見られているのか、よく考えてみれば、観光にせよ大学対策にせよ、「やったような気になる」だけの施策では、根本的な解決にはならないし、短期的にも大して効果を生まないだろう。「対策」の対象たる大学の側としては、そうした外枠での施策に抜本的な改善の兆しが見られないのであれば、自らの経営改善を第一に考えて、「街の魅力」よりも「大学の魅力」に頼らざるをえない。
たぶん解決策はある。ひとつの考え方は、ネットワーク。情報ネットワーク利用の質的向上と動機付けか。今の稚内市民には、街での生活にメリットある情報が、ネットワーク上に転がっていない。まずそうした情報の提供を促すために、民間セクター(具体的には市民のよくいく店)の情報をネットワークを通じて流し、なおかつネットワーク経由の情報にはありがたみがあるようにする。それと交通ネットワークの整備、それからこのネットワークは、観光客にとっても有益なものにすること。大学ではソーシャルネットワーキングが動き始めた。この動きは、市民のネットワーク作り、シームレスにつながる市民と大学のネットワーク作りに、確実に一役買うはずである。